#一日禅# 人之所以累,是想要的太多;心之所以烦恼,是放下的太少。得到了,开心一时;得不到,痛苦一世。活着,不可能无求,但要清楚什么值得,什么不值得;不可能无欲,但要明白什么有所为,什么所不为。心宽,便无事不能容;心仁,便无人不能忍。路上有心,心中才有路;心中有惜,路上才有情。(转)
【blog】2022.09.03
ドードーの落下日誌(前編)
稽古中の日誌です。
観に行くか迷っている人や、劇のことをもっと知りたい人の助けになればと、日誌を書いてみました。
劇の内容に触れている箇所などあります。
「ドードーが落下する」を観に行く予定の方で、まだ読みたくない、読まずに観たいという方がいたらまだ読まないでくださいね。
稽古初日
本読み。
反省しかない。
加藤さんの言葉で「理解し合えない二人が友達でいれるのか」という言葉が印象に残る。
それから、信也(僕)が夏目(平原テツ)をどう受け取っていくかが大事と言われる。おそらくこの劇で最も大切なのがそれで、僕はそれが丁寧にできていなかった。
稽古終、取材。この劇について聞かれ、まだぼんやりしている中で答える。加藤さんがこの劇を立ち上げるということがどういうことか、信也がその瞬間や過去のことをどう見つめていたか、そういうことが全部つながっている。信也の心にはあの頃のことが刻まれている。忘れられない。忘れたくない。そんな劇を立ち上げたい。
稽古二日目
座組のみんながリラックスしていて本読みも昨日よりは良い感じ。加藤さんの、脚本や役柄の説明が入りながら全員で認識のすり合わせをして、ひたすら本読みをする。帰りの電車、加藤さんと二人きり。俺喋りっぱなし。浮かれてるなあ。
鶏肉を焼く。映画ムーンライトシャドウを見ながら眠る。
稽古三日目
加藤さんが「ドードーが落下する」について話してくれる時間がめっちゃ楽しいと気づく。何より本人が一番楽しそう。でも思えば劇団た組の公演の時、加藤さんはいつも楽しそうだ。緊張感もあるけど。三日目だけどとても疲労している。どうしてだろう。この脚本の持つ魔力、ポテンシャルを読めば読むほど感じる。ラストシーンについて少しだけヒントをもらう。この感覚懐かしい。加藤さんがくれるわずかなヒントを手繰り寄せて、深淵に辿り着きたい。
生姜焼きを作る。
稽古四日目
稽古場の待合室でする雑談が幸せ。初めて劇団た組に出演した時の稽古場に比べると目に見えて美しく贅沢な稽古場。でもあの頃の稽古場も少し恋しい。今日から立ち稽古が始まる。疲労はするけど楽しい。ドードーが落下するが立ち上がる。落下しながら立ち上がる。夏目さんの台詞を聞きながら思うことがある。この戯曲を読んだ人たちは、それぞれの夏目さんを語る。「引きずられる」「負の感情」そんな色々な言葉も聞いた。僕は劇中にも登場するようなその言葉を聞きながら信也の気持ちを想像する。周囲の人が夏目さんを語った時、彼は何を思っていたんだろう。理解し合えない人たちは友人でいられるのか。僕はこの劇で答えを追ってみたい。
頭の中でずっと台詞が聞こえて深夜まで眠れない。
稽古5日目
昼、あんかけ焼きそばを作る。
稽古場に向かう。Wikipediaでドードーを検索する。
のろますぎて絶滅した動物と出てくる。
人類によって絶滅した動物。
ポルトガル語でのろま。
アメリカ英語でdodoは滅びてしまった存在の代名詞。
警戒心が薄く人間が近づいても逃げないため素手で捕まえられたそう。
空を飛べない。
ドードーが落下する。
それは、捕まえられるのかな。
帰り道、訳もわからず寂しい。みんなとご飯に行きたい。信也についてアドバイスをくれた求一郎の言葉。
「信也、難しいよね。
寄り添い切るわけでもなく、
突き放し切るでもなく、
笑い物にし切るわけでもなく」
この劇の稽古に入ってから、一人の時間が耐え難く寂しい。
稽古6日目
書き忘れる。カルボナーラを作る。
稽古7日目
けっこうガッツリ稽古をして疲れる。加藤さんの脚本は台詞のニュアンスが曖昧なところへ向かうほど面白い。何度も体験している演出なのに劇団た組に参加する頃にはいつもそれを忘れている。つい一つの感情で台詞を表現しがちになってしまう。その度にこの場所に引き戻してもらってる。破壊と再生。
帰りの車内、古田新太さんのインタビューを読む。喫煙や飲酒によるコミュニケーションが減ったと。それが良い悪いの話ではなく、良い悪いの中間地点の話、つまり余白が大事だと。その余白を良くないからと切り捨てるのはどうかと。なるほど。
そう考えるとこの稽古場には、稽古場の外に休憩スペースのソファやらがあって、そこで皆が雑談できるのがありがたい。これは余白か。でもやっぱりまだ発言しづらい人もいるんだろうな。僕はそういうことを忘れがち。共演者の声を聞きたい。稽古終わりのご飯があればいいのに。きっとこの芝居は座組のコミュニケーションが深まるほど、良くなる、気がする。かぼちゃの煮物つくる。
稽古8日目
けっこう夏目さんの台詞が俺に侵食してくるなあ。
「ちょっと死にます」と電話をかけたくなる夏目の気持ちを想像してしまう。世界とのズレね。埋まらない孤独ね。どうして自分はこんなに孤独なんだろう?という純粋な疑問が襲ってくる夜ね。信也を演じながらずっと夏目さんの台詞聞いてるからなあ。
そっかあ。そう考えると、こんなとき夏目が電話をかけられるのは信也なのか。
肉豆腐つくる。夜、台詞にうなされて眠れない。明け方、クエンティンタランティーノに太極拳を教える夢を見る。
稽古9日目
帰りの電車。加藤さんと秋元と求一郎と。この電車の時間もいいよなあ。昨日、一昨日と一人で帰ってみて、やっぱり一緒に帰りたいなと。
今日は「ドードーが落下する」のあらすじを。
たくさんの人に見て欲しいな。
9月21日が初日なんだけど、その日はちょうど9年前に僕がオフィス作のオーディションを受けた日。松田美由紀さんと出会った日。僕にとっては忘れられない日なんだけど、その日に10年目の初日を迎えられることが嬉しい。
かぼちゃ煮物の残りでクリームパスタつくる。
「見えなかったら大丈夫と思ってたのに。実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ。だから僕をそうしてもらったんですね、こいつに 」
イベント制作会社に勤める信也(藤原季節)と芸人の庄田(秋元龍太朗)は芸人仲間である夏目(平原テツ)からの電話に胸騒ぎを覚える。三年前、夏目は信也や友人達に飛び降りると電話をかけ、その後に失踪していた。しかしその二年後、再び信也に夏目から連絡がある。夏目は「とある事情」が原因で警察病院に入院していたそうで、その「とある事情」を説明する。それから信也達と夏目は再び集まるようになったものの、その「とある事情」は夏目と友人達の関係を変えてしまっていた。信也達と夏目との三年間を巡る青春失踪劇。
稽古10日目。書き忘れる。
湖で泳ぐ夢を見る。湖の底に落ちているビーサンを潜って取ろうとするけど取れない。
稽古11日目。書き忘れる。
体力の限界まで稽古をして、翌日は稽古やすみ。
稽古12日目。
台本を開くのが辛い。劇団た組の稽古をしていると確かにこの時間を通過する。膨大な台詞の反復と稽古場での台詞忘れを繰り返し続けていると、やがて夢に出てきてうなされるようになる。電車の中で台本を握りしめるけれどページを開くことが出来ない。
いよいよラストシーンの稽古が始まった。テツさんに圧倒されて台詞が出てこなくなる。悔しいし情けない。今まで演じた役の中で最も複雑な演技を求められている気がする。難しい。明日は頑張ろうという言葉すら出てこない。稽古場で諦めにも近い感情になったのは初めてのこと。稽古はいつもより早く17時半に終わる。
横浜駅まで歩いて帰ろうとしたら何人かがついてきてくれる。駅まで喋りながら帰る。楽しかった。みんなドードーがとにかく面白いと言っていて、それぞれの物語を語り合う。求一郎が通りがかった公園でいきなり鉄棒をし始める。誰も触れない。誰も観ていないところでポケットからスマホが落ちて画面が割れたらしい。
夜眠れないだろうなと思っていたらやっぱり全然眠れない。映画をかけてみたら最後まで観てしまう。毎日みんなと一緒にいるのに孤独を感じる。物語の持つ力せいか、演劇の持つ力のせいか。これまでもこんなに苦しかった?思い出せない。ただ、加藤拓也が書く物語の魔力、のようなものは確実に増していると思う。
稽古13日目。
細かい演出とシーンの反復が始まる。何度も何度も繰り返して細かい台詞のニュアンスや空白を詰めていく。20時近くまでみっちり稽古。加藤さんには珍しく長い時間稽古をしている。楽しくて時間が過ぎるのが早い。最後はみんながハイになって笑いが止まらなくなって、終了。
帰りの電車で加藤さんと話す。ラストに向かっていくヒントをもらう。少しずつ。
今週末に予定している通し稽古で何が見えるか。
夜はプリズムの放送。余韻を引きずりながら布団に入る。明日も稽古頑張ろう。
稽古14日目
後半の通し稽古。演じていてたまらなくなる。どうしようもない。楽しくて苦しい。
そのあと休憩を入れて返し稽古をするも疲れで全く台詞が出てこなくなる。
自分の体力のなさにショック。
今は夜中の3時。頭がハイになって眠れない日々が続く。演劇ってこんなに大変だったか?明日やれるのか自分。笑うしかない。
稽古15日目
今日から9月が始まった。
少し朦朧とした頭のまま、全力で返し稽古。
後半のシーンを繰り返し詰めていく。まだまだやることは沢山あるなあ。それでも少しずつ物語や関係性の輪郭が見えてきた気がする。輪郭が見えたらあとは中身を詰めていくだけ。
共演者とのコミュニケーションが深まってきた気がする。山脇辰哉がインスタで劇のことを書いていて嬉しくなる。みんなそれぞれドードーに対する思いがあるんだな。そう考えると、演じる底力が沸いてくる。
明日は初の全編、通し稽古。スタッフさんが来てくれるらしい。がんばろう。
稽古16日目
映画も見ない。本も読まない。ご飯も作らない。
芝居のことだけ考えて、だんだん無欲になっていく自分がいる。稽古終わり、加藤さんに連れられて足ツボマッサージに行く。足ツボを押されながら、そういえば新しい靴が欲しいなあとか、明日は日用品を買わなきゃとか、色んなことを思い出していく。
今日の通し稽古は大失敗だった。言われたことできてないし、早口だし、力んでるし。でも、まあ、失敗しておいて良かった。とにかく身も心もリラックスしてフラットな状態で挑む大切さを知ることが出来た。おやすみ。
https://t.cn/A6SA0w14
https://t.cn/A6S0b0dr
ドードーの落下日誌(前編)
稽古中の日誌です。
観に行くか迷っている人や、劇のことをもっと知りたい人の助けになればと、日誌を書いてみました。
劇の内容に触れている箇所などあります。
「ドードーが落下する」を観に行く予定の方で、まだ読みたくない、読まずに観たいという方がいたらまだ読まないでくださいね。
稽古初日
本読み。
反省しかない。
加藤さんの言葉で「理解し合えない二人が友達でいれるのか」という言葉が印象に残る。
それから、信也(僕)が夏目(平原テツ)をどう受け取っていくかが大事と言われる。おそらくこの劇で最も大切なのがそれで、僕はそれが丁寧にできていなかった。
稽古終、取材。この劇について聞かれ、まだぼんやりしている中で答える。加藤さんがこの劇を立ち上げるということがどういうことか、信也がその瞬間や過去のことをどう見つめていたか、そういうことが全部つながっている。信也の心にはあの頃のことが刻まれている。忘れられない。忘れたくない。そんな劇を立ち上げたい。
稽古二日目
座組のみんながリラックスしていて本読みも昨日よりは良い感じ。加藤さんの、脚本や役柄の説明が入りながら全員で認識のすり合わせをして、ひたすら本読みをする。帰りの電車、加藤さんと二人きり。俺喋りっぱなし。浮かれてるなあ。
鶏肉を焼く。映画ムーンライトシャドウを見ながら眠る。
稽古三日目
加藤さんが「ドードーが落下する」について話してくれる時間がめっちゃ楽しいと気づく。何より本人が一番楽しそう。でも思えば劇団た組の公演の時、加藤さんはいつも楽しそうだ。緊張感もあるけど。三日目だけどとても疲労している。どうしてだろう。この脚本の持つ魔力、ポテンシャルを読めば読むほど感じる。ラストシーンについて少しだけヒントをもらう。この感覚懐かしい。加藤さんがくれるわずかなヒントを手繰り寄せて、深淵に辿り着きたい。
生姜焼きを作る。
稽古四日目
稽古場の待合室でする雑談が幸せ。初めて劇団た組に出演した時の稽古場に比べると目に見えて美しく贅沢な稽古場。でもあの頃の稽古場も少し恋しい。今日から立ち稽古が始まる。疲労はするけど楽しい。ドードーが落下するが立ち上がる。落下しながら立ち上がる。夏目さんの台詞を聞きながら思うことがある。この戯曲を読んだ人たちは、それぞれの夏目さんを語る。「引きずられる」「負の感情」そんな色々な言葉も聞いた。僕は劇中にも登場するようなその言葉を聞きながら信也の気持ちを想像する。周囲の人が夏目さんを語った時、彼は何を思っていたんだろう。理解し合えない人たちは友人でいられるのか。僕はこの劇で答えを追ってみたい。
頭の中でずっと台詞が聞こえて深夜まで眠れない。
稽古5日目
昼、あんかけ焼きそばを作る。
稽古場に向かう。Wikipediaでドードーを検索する。
のろますぎて絶滅した動物と出てくる。
人類によって絶滅した動物。
ポルトガル語でのろま。
アメリカ英語でdodoは滅びてしまった存在の代名詞。
警戒心が薄く人間が近づいても逃げないため素手で捕まえられたそう。
空を飛べない。
ドードーが落下する。
それは、捕まえられるのかな。
帰り道、訳もわからず寂しい。みんなとご飯に行きたい。信也についてアドバイスをくれた求一郎の言葉。
「信也、難しいよね。
寄り添い切るわけでもなく、
突き放し切るでもなく、
笑い物にし切るわけでもなく」
この劇の稽古に入ってから、一人の時間が耐え難く寂しい。
稽古6日目
書き忘れる。カルボナーラを作る。
稽古7日目
けっこうガッツリ稽古をして疲れる。加藤さんの脚本は台詞のニュアンスが曖昧なところへ向かうほど面白い。何度も体験している演出なのに劇団た組に参加する頃にはいつもそれを忘れている。つい一つの感情で台詞を表現しがちになってしまう。その度にこの場所に引き戻してもらってる。破壊と再生。
帰りの車内、古田新太さんのインタビューを読む。喫煙や飲酒によるコミュニケーションが減ったと。それが良い悪いの話ではなく、良い悪いの中間地点の話、つまり余白が大事だと。その余白を良くないからと切り捨てるのはどうかと。なるほど。
そう考えるとこの稽古場には、稽古場の外に休憩スペースのソファやらがあって、そこで皆が雑談できるのがありがたい。これは余白か。でもやっぱりまだ発言しづらい人もいるんだろうな。僕はそういうことを忘れがち。共演者の声を聞きたい。稽古終わりのご飯があればいいのに。きっとこの芝居は座組のコミュニケーションが深まるほど、良くなる、気がする。かぼちゃの煮物つくる。
稽古8日目
けっこう夏目さんの台詞が俺に侵食してくるなあ。
「ちょっと死にます」と電話をかけたくなる夏目の気持ちを想像してしまう。世界とのズレね。埋まらない孤独ね。どうして自分はこんなに孤独なんだろう?という純粋な疑問が襲ってくる夜ね。信也を演じながらずっと夏目さんの台詞聞いてるからなあ。
そっかあ。そう考えると、こんなとき夏目が電話をかけられるのは信也なのか。
肉豆腐つくる。夜、台詞にうなされて眠れない。明け方、クエンティンタランティーノに太極拳を教える夢を見る。
稽古9日目
帰りの電車。加藤さんと秋元と求一郎と。この電車の時間もいいよなあ。昨日、一昨日と一人で帰ってみて、やっぱり一緒に帰りたいなと。
今日は「ドードーが落下する」のあらすじを。
たくさんの人に見て欲しいな。
9月21日が初日なんだけど、その日はちょうど9年前に僕がオフィス作のオーディションを受けた日。松田美由紀さんと出会った日。僕にとっては忘れられない日なんだけど、その日に10年目の初日を迎えられることが嬉しい。
かぼちゃ煮物の残りでクリームパスタつくる。
「見えなかったら大丈夫と思ってたのに。実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ。だから僕をそうしてもらったんですね、こいつに 」
イベント制作会社に勤める信也(藤原季節)と芸人の庄田(秋元龍太朗)は芸人仲間である夏目(平原テツ)からの電話に胸騒ぎを覚える。三年前、夏目は信也や友人達に飛び降りると電話をかけ、その後に失踪していた。しかしその二年後、再び信也に夏目から連絡がある。夏目は「とある事情」が原因で警察病院に入院していたそうで、その「とある事情」を説明する。それから信也達と夏目は再び集まるようになったものの、その「とある事情」は夏目と友人達の関係を変えてしまっていた。信也達と夏目との三年間を巡る青春失踪劇。
稽古10日目。書き忘れる。
湖で泳ぐ夢を見る。湖の底に落ちているビーサンを潜って取ろうとするけど取れない。
稽古11日目。書き忘れる。
体力の限界まで稽古をして、翌日は稽古やすみ。
稽古12日目。
台本を開くのが辛い。劇団た組の稽古をしていると確かにこの時間を通過する。膨大な台詞の反復と稽古場での台詞忘れを繰り返し続けていると、やがて夢に出てきてうなされるようになる。電車の中で台本を握りしめるけれどページを開くことが出来ない。
いよいよラストシーンの稽古が始まった。テツさんに圧倒されて台詞が出てこなくなる。悔しいし情けない。今まで演じた役の中で最も複雑な演技を求められている気がする。難しい。明日は頑張ろうという言葉すら出てこない。稽古場で諦めにも近い感情になったのは初めてのこと。稽古はいつもより早く17時半に終わる。
横浜駅まで歩いて帰ろうとしたら何人かがついてきてくれる。駅まで喋りながら帰る。楽しかった。みんなドードーがとにかく面白いと言っていて、それぞれの物語を語り合う。求一郎が通りがかった公園でいきなり鉄棒をし始める。誰も触れない。誰も観ていないところでポケットからスマホが落ちて画面が割れたらしい。
夜眠れないだろうなと思っていたらやっぱり全然眠れない。映画をかけてみたら最後まで観てしまう。毎日みんなと一緒にいるのに孤独を感じる。物語の持つ力せいか、演劇の持つ力のせいか。これまでもこんなに苦しかった?思い出せない。ただ、加藤拓也が書く物語の魔力、のようなものは確実に増していると思う。
稽古13日目。
細かい演出とシーンの反復が始まる。何度も何度も繰り返して細かい台詞のニュアンスや空白を詰めていく。20時近くまでみっちり稽古。加藤さんには珍しく長い時間稽古をしている。楽しくて時間が過ぎるのが早い。最後はみんながハイになって笑いが止まらなくなって、終了。
帰りの電車で加藤さんと話す。ラストに向かっていくヒントをもらう。少しずつ。
今週末に予定している通し稽古で何が見えるか。
夜はプリズムの放送。余韻を引きずりながら布団に入る。明日も稽古頑張ろう。
稽古14日目
後半の通し稽古。演じていてたまらなくなる。どうしようもない。楽しくて苦しい。
そのあと休憩を入れて返し稽古をするも疲れで全く台詞が出てこなくなる。
自分の体力のなさにショック。
今は夜中の3時。頭がハイになって眠れない日々が続く。演劇ってこんなに大変だったか?明日やれるのか自分。笑うしかない。
稽古15日目
今日から9月が始まった。
少し朦朧とした頭のまま、全力で返し稽古。
後半のシーンを繰り返し詰めていく。まだまだやることは沢山あるなあ。それでも少しずつ物語や関係性の輪郭が見えてきた気がする。輪郭が見えたらあとは中身を詰めていくだけ。
共演者とのコミュニケーションが深まってきた気がする。山脇辰哉がインスタで劇のことを書いていて嬉しくなる。みんなそれぞれドードーに対する思いがあるんだな。そう考えると、演じる底力が沸いてくる。
明日は初の全編、通し稽古。スタッフさんが来てくれるらしい。がんばろう。
稽古16日目
映画も見ない。本も読まない。ご飯も作らない。
芝居のことだけ考えて、だんだん無欲になっていく自分がいる。稽古終わり、加藤さんに連れられて足ツボマッサージに行く。足ツボを押されながら、そういえば新しい靴が欲しいなあとか、明日は日用品を買わなきゃとか、色んなことを思い出していく。
今日の通し稽古は大失敗だった。言われたことできてないし、早口だし、力んでるし。でも、まあ、失敗しておいて良かった。とにかく身も心もリラックスしてフラットな状態で挑む大切さを知ることが出来た。おやすみ。
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道医丨道窍谈之神气性命、先天直指
后天之道,神气也。先天之道,性命也。性命、神气,相似而实相悬,所以《入药镜》云:“是性命,非神气。水乡铅,只一味。” 此言甚可玩也。学人知此分际,当以神气了后天,而以性命了先天。是何也?性所命者曰性命,两件原是一件。此立命之心法也。
《悟真》 云:“异名同出少人知,两者玄玄是要机。”盖以命为异名,而以 性为同出。以铅为异名,而汞为同出。故水乡铅,只一味也。只一味者,一味铅,本于一味汞也。《道德经》云“无欲以观其妙,有欲以观其窍。”观妙、观窍, 玄玄之机。人当至静无欲以观其妙,是乃定性之功。及乎时至机动。元始真一之气自虚无来者,实有窍焉。夫两者虽有异名,而皆本于太极,是其同出者也。
于其无者以观妙,己得一玄,于其有者而观窍,又得一玄。玄之又玄,性在是而命在是也。夫性者本乎天命,而命也本乎尽性。天以气成物,而理亦赋焉。是由命以与人性,故曰天命之谓性也。人以理造物,而气始生焉。是由性以立其命,故曰尽性以至命。在天则理从气出,在道则气从理出。
理从气出者,以气为重焉。此气乃氤氲化醇之气,人得此气而生身,然后理有所寄,故此气为 可重也。气从理出者,更以气为重焉。此气乃元始真一之气,阴受 阳光,而铅种铅中,又见一阳生,故此气愈可重也。
金液还丹之道,非一铅气不能生成,识者宝之。
先天者,超乎后天之上,初、始,为本、为元,盖一炁之 尊称也。但此先天之气有三端,先天之名有二义。二义为何?先出于天者,一也。先原于天者,二也。先出于天者,比天更早,为生 天生地之先天也。此气包鸿濛之体,初名太无。天地未分,先有此气。此其先出于天也。故曰先天。此一端也。先原于天者,从天而 起,为生人、生物之先天。
此气含氤氲之象,潜形太虚。人物未产,先有此气。此其先原于天也,亦曰先天。此二端也。至于生仙、生 佛之先天,合前二义兼有之。此气从虚无中来,称太乙,金丹假此而后成,曰祖、曰始、曰含真,可与先出乎天,先原于天者,为三相类,故亦号为先天。此三端也。历圣丹经,或谓生天、生地之先 天,生人、生物之先天,无非比喻此生仙、生佛之先天而已。
或有问生天、生地者。团阳曰:这个先天,太极生之。《经》所 谓“有物混成,先天地生。不知其名,强名曰道”是也。万象之祖,两大之宗,无体无形,无声无臭。始则杳杳冥冥,五行不到。又复 恍恍惚惚,一炁自然。至于清浊判,玄黄别,则乾坤定位,天地分彰矣。又有问生人生物者。团阳曰:这个先天,天地主之。一而三,三而一。一者炁也,三者精、气、神也。鼓铸群生,不离三一。以 言其精,为二五之精。
以言其气,为阴阳之气。以言其神,为虚空 之神。虚空之神,即与阴阳之气相来往。二五之精,即与阴阳之气 共生成。其气灵,灵故神。其气妙,妙故精。上蟠下际者,气也,而天地之精神在其内矣。人得此气而受生,即为天元之气。但此气 有清有浊,有刚有柔。得其刚者为男,得其柔者为女。得其清者为 智,得其浊者为愚。父母未交以前,此气存于于穆。父母施受之际,此气降于厥初。迨其精血混融,胎元完具,而此气已浑然在胞矣。此时无神,以气为神。此时无精,以气为精。气肫而包固,即精也。
然此乃元气、元精、元神,为人受生之先天。童子逢师得诀,守此 清修,亦可希无为天仙。又有真气、真神、真精,为我修丹之先天者。学者不识真机,无从下手,何以觅其至宝?今夫先天者,见之不可用,用之不可见,乃丹士致虚守静,借假修真,从无产有者也。斯时也,三二一之道,分合自然。神为不神之神,精为至精之精,气为真一之气,三也。不神之神,神乎其神,龙性是也;至精之精,精而又精,虎精是也。二也。至于真一之气,乃是了命真铅,即合 龙虎情性,打成一片,号为丹母者也,一也。得此真一而饵之,三 尸五贼皆逃遁,六六宫中尽是春。夫岂受生之气、精、神所可同哉?又岂后天之气、精、神所敢跂哉?
后天者,呼吸之气、思虑之神、交感之精,三物可闻可见,可测可推,生身以后之用也,故曰后天。夫人在胞胎时,只有一点元气,并无呼吸之气。及至十月胎全,脱 离母腹,遂假口鼻之窍,外纳天地之和,此呼吸气之所以由来也。于是而思虑之神,亦缘此气而进。借家为寓,夺舍而居。此神乃历 劫轮回种子,生时先来,死时先去,弃旧图新,毫无休息者。赤子 下地而先哭,盖亦默著其轮回之苦也。迨其抚养渐成,识神用事,情欲缠扰,元气日亡,并使呼吸之气刻无停息,亦何惨也!
更有后天之精者,生不带来,死不带去,只因身中元气渐充渐满,推而至 于十五岁后,阳极阴生,阴长阳消,遂令浑沦之气,化为交感之情。交感者,有交有感则有精,无交无感亦无精。此精乃欲念所逼,气血所化者也。更有梦感、梦交而遗其精者,必是气血不固,肾窍难留也。此交感之精也。吾愿学道之士,只取先天,不取后天,则上药可得矣。即或筑基炼己,不敢骤寻极品,亦必炼元精而化元气,炼元气而产真铅,以为后天之先天,以足半斤之后天,则亦可求此 无上之先天也。 #道教[超话]#
后天之道,神气也。先天之道,性命也。性命、神气,相似而实相悬,所以《入药镜》云:“是性命,非神气。水乡铅,只一味。” 此言甚可玩也。学人知此分际,当以神气了后天,而以性命了先天。是何也?性所命者曰性命,两件原是一件。此立命之心法也。
《悟真》 云:“异名同出少人知,两者玄玄是要机。”盖以命为异名,而以 性为同出。以铅为异名,而汞为同出。故水乡铅,只一味也。只一味者,一味铅,本于一味汞也。《道德经》云“无欲以观其妙,有欲以观其窍。”观妙、观窍, 玄玄之机。人当至静无欲以观其妙,是乃定性之功。及乎时至机动。元始真一之气自虚无来者,实有窍焉。夫两者虽有异名,而皆本于太极,是其同出者也。
于其无者以观妙,己得一玄,于其有者而观窍,又得一玄。玄之又玄,性在是而命在是也。夫性者本乎天命,而命也本乎尽性。天以气成物,而理亦赋焉。是由命以与人性,故曰天命之谓性也。人以理造物,而气始生焉。是由性以立其命,故曰尽性以至命。在天则理从气出,在道则气从理出。
理从气出者,以气为重焉。此气乃氤氲化醇之气,人得此气而生身,然后理有所寄,故此气为 可重也。气从理出者,更以气为重焉。此气乃元始真一之气,阴受 阳光,而铅种铅中,又见一阳生,故此气愈可重也。
金液还丹之道,非一铅气不能生成,识者宝之。
先天者,超乎后天之上,初、始,为本、为元,盖一炁之 尊称也。但此先天之气有三端,先天之名有二义。二义为何?先出于天者,一也。先原于天者,二也。先出于天者,比天更早,为生 天生地之先天也。此气包鸿濛之体,初名太无。天地未分,先有此气。此其先出于天也。故曰先天。此一端也。先原于天者,从天而 起,为生人、生物之先天。
此气含氤氲之象,潜形太虚。人物未产,先有此气。此其先原于天也,亦曰先天。此二端也。至于生仙、生 佛之先天,合前二义兼有之。此气从虚无中来,称太乙,金丹假此而后成,曰祖、曰始、曰含真,可与先出乎天,先原于天者,为三相类,故亦号为先天。此三端也。历圣丹经,或谓生天、生地之先 天,生人、生物之先天,无非比喻此生仙、生佛之先天而已。
或有问生天、生地者。团阳曰:这个先天,太极生之。《经》所 谓“有物混成,先天地生。不知其名,强名曰道”是也。万象之祖,两大之宗,无体无形,无声无臭。始则杳杳冥冥,五行不到。又复 恍恍惚惚,一炁自然。至于清浊判,玄黄别,则乾坤定位,天地分彰矣。又有问生人生物者。团阳曰:这个先天,天地主之。一而三,三而一。一者炁也,三者精、气、神也。鼓铸群生,不离三一。以 言其精,为二五之精。
以言其气,为阴阳之气。以言其神,为虚空 之神。虚空之神,即与阴阳之气相来往。二五之精,即与阴阳之气 共生成。其气灵,灵故神。其气妙,妙故精。上蟠下际者,气也,而天地之精神在其内矣。人得此气而受生,即为天元之气。但此气 有清有浊,有刚有柔。得其刚者为男,得其柔者为女。得其清者为 智,得其浊者为愚。父母未交以前,此气存于于穆。父母施受之际,此气降于厥初。迨其精血混融,胎元完具,而此气已浑然在胞矣。此时无神,以气为神。此时无精,以气为精。气肫而包固,即精也。
然此乃元气、元精、元神,为人受生之先天。童子逢师得诀,守此 清修,亦可希无为天仙。又有真气、真神、真精,为我修丹之先天者。学者不识真机,无从下手,何以觅其至宝?今夫先天者,见之不可用,用之不可见,乃丹士致虚守静,借假修真,从无产有者也。斯时也,三二一之道,分合自然。神为不神之神,精为至精之精,气为真一之气,三也。不神之神,神乎其神,龙性是也;至精之精,精而又精,虎精是也。二也。至于真一之气,乃是了命真铅,即合 龙虎情性,打成一片,号为丹母者也,一也。得此真一而饵之,三 尸五贼皆逃遁,六六宫中尽是春。夫岂受生之气、精、神所可同哉?又岂后天之气、精、神所敢跂哉?
后天者,呼吸之气、思虑之神、交感之精,三物可闻可见,可测可推,生身以后之用也,故曰后天。夫人在胞胎时,只有一点元气,并无呼吸之气。及至十月胎全,脱 离母腹,遂假口鼻之窍,外纳天地之和,此呼吸气之所以由来也。于是而思虑之神,亦缘此气而进。借家为寓,夺舍而居。此神乃历 劫轮回种子,生时先来,死时先去,弃旧图新,毫无休息者。赤子 下地而先哭,盖亦默著其轮回之苦也。迨其抚养渐成,识神用事,情欲缠扰,元气日亡,并使呼吸之气刻无停息,亦何惨也!
更有后天之精者,生不带来,死不带去,只因身中元气渐充渐满,推而至 于十五岁后,阳极阴生,阴长阳消,遂令浑沦之气,化为交感之情。交感者,有交有感则有精,无交无感亦无精。此精乃欲念所逼,气血所化者也。更有梦感、梦交而遗其精者,必是气血不固,肾窍难留也。此交感之精也。吾愿学道之士,只取先天,不取后天,则上药可得矣。即或筑基炼己,不敢骤寻极品,亦必炼元精而化元气,炼元气而产真铅,以为后天之先天,以足半斤之后天,则亦可求此 无上之先天也。 #道教[超话]#
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