✨
そこに幸せはありますか
誰かと繋がっていますか
心は壊れていませんか
大丈夫 大丈夫
この物語とプログラムたちは
あなたの味方です
これは あなたへ
あなたの味方の贈り物
✨
(心拍音)
♪「火の鳥」
気がついたら
世界があった
息をしていた
自分は なんだろう
でも 名前はあった
好きなものもあった
大好きなものもあった
僕は その大好きなものに
なりたかった
僕には できないことが
たくさんあった
でも 少しずつ 少しずつ
できることが増えた
その度に 世界が
あったかくなった
その世界が 大好きだった
だからもっと もっと
あったかくなりたくて
できるように なりたくなった
(秒針の音)
僕はもっとできるようになった
世界があったかくなるのが
大好きだった
その世界は
やさしい言葉で溢れていた
“すごい!”
“えらい!”
"よくできたね!"
ある日 その世界で1番
あったかくなれる場所を見つけた
それは僕の夢になった
いつか叶うのかな
“きっと叶うよ”
心の中から聞こえてくる
どうして そんなこと言えるの?
“だって君は
叶えたいんでしょ?”
うん 僕は 叶えたい
“だったら絶対に叶うよ”
“君はできないことが嫌いだから”
そう言って
心の中から聞こえてきた
不思議な声は消えていった
まわりには
たくさんの想いがあることも
たくさんの命があることも
まだまだ気がつけなかった
けれど 自然は大好きだった
光を浴びて 水をキラキラと輝かせて
ある日 気がついた
毎日同じようにそこにあるのに
気がついたら
一気に大きくなってて
努力なんか
そこにはなさそうなのに
簡単に大きくなっていく姿に
少し羨ましさも覚えた
僕だって がんばってるのに
ずるい
僕はどうして
うまくなれないんだろう
草は言った
“私はね
大きくなって花を咲かせるんだ!”
“そうするとね
世界があったかくなるんだよ”
いいな
全然苦しそうじゃない
なんにもがんばってない
僕はこんなにも
がんばっているのに
ねえ なんでそんな
簡単に夢が叶うの?
僕も叶えたい!
“それはね
太陽があるからだよ!”
“力をたーくさんくれるんだ!”
太陽か…いいなぁ
僕は太陽みたくなりたい!
大陽みたいにみんなに力をあげて
みんなが
世界をあったかくするんだ!
でもどうして太陽は
ずっといてくれないんだろう
夜になると暗くなっちゃう
そっか 月が悪者なんだ
やっつけてやる!
おーい 月!
なんで太陽を隠すの?
“ぼくは太陽が大好きで
大切なんだよ?”
あれ?嫌いだから
隠してるんじゃないの?
“太陽だって ずっと力を
くれるわけじゃないんだ”
“ぼくは自分では光れないけれど
太陽が光をくれるんだ”
“そのおかげで
そんなことも できるんだよ?”
月の周りには虹ができた
とてもきれいで
すごく儚くて
心があたたかいもので満たされた
そして同時に気がついた
月にはたくさんの傷があること
とっても痛そう
とっても辛そう
痛くないの?
どうしてがんばれるの?
“夜になると
みんなが見てくれるんだ”
“辛いところなんてないよ
これが僕だから”
すごくかっこいいって思った
僕も月みたいに 強くて
かっこよくなりたいって思った
それから何度も辛くて
悲しくて やめたくなったけど
がんばった
でも できないことばかり
やっぱりできない
でもがんばる
負けない
ずっとずっと
暗いトンネルの中みたいだった
でもそのトンネルには
光が入ってくる場所が
いくつもあって
朝になって 夜になって
また朝になって すぐ夜になる
そんな毎日だった
そのトンネルを進むたび
一人になっていった
でもそれでよかった
大切なものがあるんだ
夢という光のかけら
ずっとずっと
大切に持っているものと
一緒に進むんだ
ずっと前に
前に 前に!
走って 走って 全力で進んだ
気がつくと
大切なものしかなくなっていた
それは さみしいこと?
ううん 楽しい!
そうだよね 楽しいよね!
なくしたくないものを
ずっと大切にして
ぎゅって掴んで
絶対に離さないんだ
だって 叶えたい夢があるから!
それが かっこいいから!
それが 僕なんだ!
♪「Hope&Legacy」
北条の「圧倒的な大軍」が家康に戦意喪失の驚き 旧武田領巡り、上杉・北条・徳川で三つ巴の争い
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた? 「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第33回は、北条軍と徳川軍の戦いを解説する。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
■旧武田領を巡って三つ巴の戦いに
「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれると、徳川家康は窮地に追い込まれながらも、伊賀越えを成功させて、無事に三河へと帰還。「信長の仇を討つべし」と方々に書状を出したが、言葉と裏腹にその腰は重かった。
羽柴秀吉がいち早く光秀を討ち、信長の後継者として台頭しようとするなかで、家康は旧武田領である甲斐、信濃、上野にいち早く目を向けている(前回記事「『秀吉が信長の仇討つ』家康が悔しがらないワケ」参照)。
なにしろ旧武田領は織田家の領土になってから、まだ日が浅い。そのため、信長亡き今、真っ先に近隣大名による争奪戦の餌食になると、家康は踏んでいたのだろう。
案の定、旧武田領に手を伸ばしてきたのが、越後の上杉景勝と、相模の北条氏直である。家康と合わせて、三つ巴の争いが繰り広げられ、「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱が始まることとなった。
動乱の引き金の1つとなったのが、甲斐で起きた旧武田家家臣や土豪、地侍による一揆である。
甲斐国のうち河内領についてはもともと穴山梅雪の領土だったが、梅雪は落ち武者狩りで、命を落としている。空白地帯を作らぬように、家康は武田旧臣で徳川方についた岡部正綱をすぐに派遣していた。
問題は、それ以外の甲斐国の領地である。『三河物語』によると、家康は一揆を鎮圧すべく、本多忠政を派遣。統治していた織田家の家臣、河尻秀隆を助けようとした。
ところが、河尻はこの援軍を「自分たちを討とうとしているのではないか」と警戒。忠政にご馳走をふるまい、油断させながら、寝ているところを長刀で突き殺してしまう。
状況的には、織田家の家臣が、もはや誰も信じられなくなっていたとしても無理はない。一説によると、一揆を理由に家康は河尻を甲斐から引き離そうとしていた、ともいわれている。結局、河尻は一揆勢に殺されてしまう。
事態を受けて、家康は大須賀康高(大須賀五郎左衛門尉)や岡部正綱ら武田旧臣の者たちを派遣。甲斐の一揆を鎮圧させようと働きかけている。
しかし、2人が送り込まれてからも、しばらく一揆にてこずらされることになる。そんななか、援軍として大久保忠世(大久保七郎右衛門)が「婆口(うばぐち)」、現在の甲府市右左口に到着すると、大須賀はずいぶんと心強かったらしい。『三河物語』には、大須賀のセリフとして、こう書かれている。
「なに、大久保七郎右衛門がもう着いたか。もう大船に乗ったようなものだ」
だが、『三河物語』の作者は、大久保忠世の弟にあたる大久保彦左衛門(忠教)であり、兄の活躍を強調する描写が多い。実際はそれほどすんなりといったわけではなかった。
天正10(1582)年7月3日には、家康自身が浜松から出陣。8000の軍勢を率いて、9日に甲斐へと入っている。
甲斐と同じく、信長の死によって領主のいない空白地帯となったのが、信濃と上野である。ともに「本能寺の変」を契機に、状況は一変している。
信長から信濃国を与えられていた森長可は領地を捨てて、美濃へと敗走。滝川一益にいたっては、対北条氏の最前線として上野国を任されていたため、すぐさま脅威に晒されることとなった。一益は、攻め込んできた北条軍を迎え撃とうとするが、敗走を重ねて完全に駆逐されてしまっている。
そんな東国の混乱ぶりについては、光秀を討った羽柴秀吉も気になっていた。だが、自身は織田家の家督相続問題に追われており、それどころではない。7月7日付の家康に宛てた書状で、次のような趣旨のことを述べている。
「信濃・甲斐・上野を敵方に渡さないでほしい」
家康はその書状を受けて2日後に甲斐へと入ったことになる。そして、甲斐・信濃一帯で割拠する国衆たちを味方につけるべく、徳川・北条・上杉が動き出すことになる。
しかし、上杉景勝は南下して信濃川中島を押さえるものの、家中に内乱が生じたことで、それ以上は進めなくなった。
一方、甲斐を押さえた家康はといえば、信濃の諏訪氏を味方につけるべく、重臣の酒井忠次が調略に動いている。だが、忠次は高島城の諏訪頼忠を説得できず、調略に失敗。足止めを食らうこととなった。
■北条の大軍を8000で迎え撃つ
そんななか、上野国へと進出して勢いに乗る北条氏直は、碓氷(うすい)峠を越えて、信濃国へと侵攻している。川中島で対峙する上杉軍と停戦したのち、甲斐を狙うべく、さらに南下。若神子(わかみこ)城へと入っていく。
対する家康は8000の軍勢で新府城に本陣をしき、両者はにらみ合うかたちとなる。家康は北条軍と全面対決することとなった。
このときに、北条の軍勢は2万とも、4万ともいわれている。兵力としては圧倒的に劣勢のなかで、家康は堅い守りで、北条の攻撃をしのいでいる。
戦況を打開すべく氏直の父である氏政が 、弟の氏忠に1万の兵を与えている。そして新府にいる家康の背後をつくことで、南北から挟み撃ちにしようとした。
ところが、徳川勢の抵抗がないため、北条の兵たちは油断して、あちこちで略奪を始めてしまう。
そうして分散するところをねらって、徳川勢の鳥居元忠ら2000の軍勢が出現。北条軍を追い詰めている(『三河物語』)。
「急な敵の出現におどろく北条軍をそこここに追いつめて殺すと、全軍総敗退となり、 御坂を目指して逃げて行く。左衛門助殿もかろうじて命は助かり、 御坂を目指して逃げ落ちて行った」
鳥居元忠は、家康が今川氏の人質だった頃からの側近の1人である。
このときに名立たる者を300人あまり討ち取ると、その首を新府城に送った。そして若神子城にいる北条方にもよく見えるように首を晒して、相手の戦意を喪失させている。
思えば、このときは調略に失敗した酒井忠次だったが、かつて武田勝頼を相手に繰り広げた長篠の戦いにおいては、奇襲攻撃に見事に成功。重臣らしい活躍を見せている。
そして今回、北条氏直を相手どった黒駒合戦では、忠次と同じくベテラン家臣である、鳥居元忠が勝利に貢献することとなった。
こうして日替わりで家臣団からヒーローが出るのが、徳川軍の強みである。家臣たちが生き生きと活躍できる雰囲気づくりに、家康は日頃から心を砕いていたのだろう。
■41歳で5カ国を治める大名となる
結局、そのまま徳川方も北条方も、決め手を欠いたまま、約80日あまりの膠着状態が続く。
和睦を申し出たのは、北条氏直のほうだ。北条に味方していた真田昌幸が寝返って、徳川方につき、ゲリラ戦を展開したことに、ずいぶんと苦しめられたらしい。
和睦の結果、北条は上野を、家康は甲斐と信濃を領有することが認められた。また、家康の次女である督姫は、北条氏直のもとへ正室として嫁がせることになる。徳川と北条の間には婚姻・同盟関係が結ばれることとなった。
こうして家康は、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を治める大名となった。41歳のときのことである。それから8年後、このとき手に入れた国をすべて手放し、関東へと国替えとなるとは、さすがの家康も予想しなかったであろう。
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた? 「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第33回は、北条軍と徳川軍の戦いを解説する。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
■旧武田領を巡って三つ巴の戦いに
「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれると、徳川家康は窮地に追い込まれながらも、伊賀越えを成功させて、無事に三河へと帰還。「信長の仇を討つべし」と方々に書状を出したが、言葉と裏腹にその腰は重かった。
羽柴秀吉がいち早く光秀を討ち、信長の後継者として台頭しようとするなかで、家康は旧武田領である甲斐、信濃、上野にいち早く目を向けている(前回記事「『秀吉が信長の仇討つ』家康が悔しがらないワケ」参照)。
なにしろ旧武田領は織田家の領土になってから、まだ日が浅い。そのため、信長亡き今、真っ先に近隣大名による争奪戦の餌食になると、家康は踏んでいたのだろう。
案の定、旧武田領に手を伸ばしてきたのが、越後の上杉景勝と、相模の北条氏直である。家康と合わせて、三つ巴の争いが繰り広げられ、「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱が始まることとなった。
動乱の引き金の1つとなったのが、甲斐で起きた旧武田家家臣や土豪、地侍による一揆である。
甲斐国のうち河内領についてはもともと穴山梅雪の領土だったが、梅雪は落ち武者狩りで、命を落としている。空白地帯を作らぬように、家康は武田旧臣で徳川方についた岡部正綱をすぐに派遣していた。
問題は、それ以外の甲斐国の領地である。『三河物語』によると、家康は一揆を鎮圧すべく、本多忠政を派遣。統治していた織田家の家臣、河尻秀隆を助けようとした。
ところが、河尻はこの援軍を「自分たちを討とうとしているのではないか」と警戒。忠政にご馳走をふるまい、油断させながら、寝ているところを長刀で突き殺してしまう。
状況的には、織田家の家臣が、もはや誰も信じられなくなっていたとしても無理はない。一説によると、一揆を理由に家康は河尻を甲斐から引き離そうとしていた、ともいわれている。結局、河尻は一揆勢に殺されてしまう。
事態を受けて、家康は大須賀康高(大須賀五郎左衛門尉)や岡部正綱ら武田旧臣の者たちを派遣。甲斐の一揆を鎮圧させようと働きかけている。
しかし、2人が送り込まれてからも、しばらく一揆にてこずらされることになる。そんななか、援軍として大久保忠世(大久保七郎右衛門)が「婆口(うばぐち)」、現在の甲府市右左口に到着すると、大須賀はずいぶんと心強かったらしい。『三河物語』には、大須賀のセリフとして、こう書かれている。
「なに、大久保七郎右衛門がもう着いたか。もう大船に乗ったようなものだ」
だが、『三河物語』の作者は、大久保忠世の弟にあたる大久保彦左衛門(忠教)であり、兄の活躍を強調する描写が多い。実際はそれほどすんなりといったわけではなかった。
天正10(1582)年7月3日には、家康自身が浜松から出陣。8000の軍勢を率いて、9日に甲斐へと入っている。
甲斐と同じく、信長の死によって領主のいない空白地帯となったのが、信濃と上野である。ともに「本能寺の変」を契機に、状況は一変している。
信長から信濃国を与えられていた森長可は領地を捨てて、美濃へと敗走。滝川一益にいたっては、対北条氏の最前線として上野国を任されていたため、すぐさま脅威に晒されることとなった。一益は、攻め込んできた北条軍を迎え撃とうとするが、敗走を重ねて完全に駆逐されてしまっている。
そんな東国の混乱ぶりについては、光秀を討った羽柴秀吉も気になっていた。だが、自身は織田家の家督相続問題に追われており、それどころではない。7月7日付の家康に宛てた書状で、次のような趣旨のことを述べている。
「信濃・甲斐・上野を敵方に渡さないでほしい」
家康はその書状を受けて2日後に甲斐へと入ったことになる。そして、甲斐・信濃一帯で割拠する国衆たちを味方につけるべく、徳川・北条・上杉が動き出すことになる。
しかし、上杉景勝は南下して信濃川中島を押さえるものの、家中に内乱が生じたことで、それ以上は進めなくなった。
一方、甲斐を押さえた家康はといえば、信濃の諏訪氏を味方につけるべく、重臣の酒井忠次が調略に動いている。だが、忠次は高島城の諏訪頼忠を説得できず、調略に失敗。足止めを食らうこととなった。
■北条の大軍を8000で迎え撃つ
そんななか、上野国へと進出して勢いに乗る北条氏直は、碓氷(うすい)峠を越えて、信濃国へと侵攻している。川中島で対峙する上杉軍と停戦したのち、甲斐を狙うべく、さらに南下。若神子(わかみこ)城へと入っていく。
対する家康は8000の軍勢で新府城に本陣をしき、両者はにらみ合うかたちとなる。家康は北条軍と全面対決することとなった。
このときに、北条の軍勢は2万とも、4万ともいわれている。兵力としては圧倒的に劣勢のなかで、家康は堅い守りで、北条の攻撃をしのいでいる。
戦況を打開すべく氏直の父である氏政が 、弟の氏忠に1万の兵を与えている。そして新府にいる家康の背後をつくことで、南北から挟み撃ちにしようとした。
ところが、徳川勢の抵抗がないため、北条の兵たちは油断して、あちこちで略奪を始めてしまう。
そうして分散するところをねらって、徳川勢の鳥居元忠ら2000の軍勢が出現。北条軍を追い詰めている(『三河物語』)。
「急な敵の出現におどろく北条軍をそこここに追いつめて殺すと、全軍総敗退となり、 御坂を目指して逃げて行く。左衛門助殿もかろうじて命は助かり、 御坂を目指して逃げ落ちて行った」
鳥居元忠は、家康が今川氏の人質だった頃からの側近の1人である。
このときに名立たる者を300人あまり討ち取ると、その首を新府城に送った。そして若神子城にいる北条方にもよく見えるように首を晒して、相手の戦意を喪失させている。
思えば、このときは調略に失敗した酒井忠次だったが、かつて武田勝頼を相手に繰り広げた長篠の戦いにおいては、奇襲攻撃に見事に成功。重臣らしい活躍を見せている。
そして今回、北条氏直を相手どった黒駒合戦では、忠次と同じくベテラン家臣である、鳥居元忠が勝利に貢献することとなった。
こうして日替わりで家臣団からヒーローが出るのが、徳川軍の強みである。家臣たちが生き生きと活躍できる雰囲気づくりに、家康は日頃から心を砕いていたのだろう。
■41歳で5カ国を治める大名となる
結局、そのまま徳川方も北条方も、決め手を欠いたまま、約80日あまりの膠着状態が続く。
和睦を申し出たのは、北条氏直のほうだ。北条に味方していた真田昌幸が寝返って、徳川方につき、ゲリラ戦を展開したことに、ずいぶんと苦しめられたらしい。
和睦の結果、北条は上野を、家康は甲斐と信濃を領有することが認められた。また、家康の次女である督姫は、北条氏直のもとへ正室として嫁がせることになる。徳川と北条の間には婚姻・同盟関係が結ばれることとなった。
こうして家康は、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を治める大名となった。41歳のときのことである。それから8年後、このとき手に入れた国をすべて手放し、関東へと国替えとなるとは、さすがの家康も予想しなかったであろう。
北極で船2隻と129人が忽然と消えた世紀の大惨事「フランクリンの謎」、“鍋に遺体”の目撃談も
伝説的な探検家ジョン・フランクリンは1845年、まだ誰も成し遂げていなかった航海に挑もうと英国を出発した。北米大陸の北の氷に閉ざされた海域を抜けて太平洋に出る「北西航路」を切り開こうとしたのである。
ギャラリー:氷に閉じ込められ、シロイルカと衝突も…フランクリン探検隊の足跡をたどる航海
この航路は極東の富を欧州にもたらす新たな交易路として期待を集めていた。しかしフランクリンの2隻の船、エレバス号とテラー号、そして彼が率いた128人の乗組員は、1845年7月にグリーランド沖で捕鯨船の乗組員に目撃されたのを最後に忽然と姿を消した。
当時は知られていなかったが、2隻の船は氷に行く手を阻まれ、北極圏の奥深くで立ち往生したのだ。生き延びてその出来事を語れる者はおらず、詳細な記録も見つかっていない。記録の欠落は数々の疑問を生んだ。「フランクリンの謎」と呼ばれるそれらの疑問は、170年余りにわたって人々の想像をかき立ててきた。
切り刻まれた遺体の一部が鍋の中に
1854年、英スコットランド出身の毛皮商で探検家のジョン・レイが、インヌックプージユックと名乗るイヌイットから聞いた話によると、35~40人ほどの白人が何年も前に大きな川の河口で餓死したという。しかも、そのイヌイットの話によれば、白人の野営地では、切り刻まれた遺体の一部が調理された状態で鍋の中に残っていたという。
重要な手がかりが見つかったのは14年後。フランクリンの妻が私費を投じて捜索し、カナダのキング・ウィリアム島の北端に位置するビクトリー岬で、手書きのメモを収めた円筒形の金属容器が発見されたのだ。
「ビクトリー岬の記録」として知られるようになったこのメモは、これまでに見つかったフランクリン隊に関する最も重要な文書で、別々に書かれた二つの記述から成る。最初の記述は1847年5月のもので、その8カ月前にキング・ウィリアム島から北西に15海里進んだ沖合でエレバス号とテラー号が氷に閉ざされて動けなくなったことがつづられ、「探検を率いるのはジョン・フランクリン卿。万事順調なり」と締めくくられている。
それから1年もたたないうちに書かれた次の記述では、1848年4月に2隻の船を置き去りにしたこと、それまでに15人の乗組員と9人の士官が死亡したことがつづられていた。フランクリンは最初のメモが書かれた2週間後に亡くなったという。生き残った乗組員はフランシス・ロードン・クロージャーの指揮下で現在地に一番近い貿易会社「ハドソン湾会社」の支所に歩いて向かうと記されている。それは距離にすると1000キロ近く南だ。メモはそこで終わっていた。
海に没したエレバス号とテラー号の残骸が、それぞれ2014年と16年に発見され、謎解きに執念を燃やす「フランクリン・マニア」は海底から引き揚げられた遺物の研究に注目するようになった。だが私が興味をもったのはそれとは別の話だ。カナダのノースウェスト準州の奥地に住む男性が、フランクリンの墓を今も探しているという。フランクリン・マニアの系譜は今も絶えることがない。
※ナショナル ジオグラフィック日本版8月号特集「北極探検隊 失踪の謎を追う」より抜粋。
伝説的な探検家ジョン・フランクリンは1845年、まだ誰も成し遂げていなかった航海に挑もうと英国を出発した。北米大陸の北の氷に閉ざされた海域を抜けて太平洋に出る「北西航路」を切り開こうとしたのである。
ギャラリー:氷に閉じ込められ、シロイルカと衝突も…フランクリン探検隊の足跡をたどる航海
この航路は極東の富を欧州にもたらす新たな交易路として期待を集めていた。しかしフランクリンの2隻の船、エレバス号とテラー号、そして彼が率いた128人の乗組員は、1845年7月にグリーランド沖で捕鯨船の乗組員に目撃されたのを最後に忽然と姿を消した。
当時は知られていなかったが、2隻の船は氷に行く手を阻まれ、北極圏の奥深くで立ち往生したのだ。生き延びてその出来事を語れる者はおらず、詳細な記録も見つかっていない。記録の欠落は数々の疑問を生んだ。「フランクリンの謎」と呼ばれるそれらの疑問は、170年余りにわたって人々の想像をかき立ててきた。
切り刻まれた遺体の一部が鍋の中に
1854年、英スコットランド出身の毛皮商で探検家のジョン・レイが、インヌックプージユックと名乗るイヌイットから聞いた話によると、35~40人ほどの白人が何年も前に大きな川の河口で餓死したという。しかも、そのイヌイットの話によれば、白人の野営地では、切り刻まれた遺体の一部が調理された状態で鍋の中に残っていたという。
重要な手がかりが見つかったのは14年後。フランクリンの妻が私費を投じて捜索し、カナダのキング・ウィリアム島の北端に位置するビクトリー岬で、手書きのメモを収めた円筒形の金属容器が発見されたのだ。
「ビクトリー岬の記録」として知られるようになったこのメモは、これまでに見つかったフランクリン隊に関する最も重要な文書で、別々に書かれた二つの記述から成る。最初の記述は1847年5月のもので、その8カ月前にキング・ウィリアム島から北西に15海里進んだ沖合でエレバス号とテラー号が氷に閉ざされて動けなくなったことがつづられ、「探検を率いるのはジョン・フランクリン卿。万事順調なり」と締めくくられている。
それから1年もたたないうちに書かれた次の記述では、1848年4月に2隻の船を置き去りにしたこと、それまでに15人の乗組員と9人の士官が死亡したことがつづられていた。フランクリンは最初のメモが書かれた2週間後に亡くなったという。生き残った乗組員はフランシス・ロードン・クロージャーの指揮下で現在地に一番近い貿易会社「ハドソン湾会社」の支所に歩いて向かうと記されている。それは距離にすると1000キロ近く南だ。メモはそこで終わっていた。
海に没したエレバス号とテラー号の残骸が、それぞれ2014年と16年に発見され、謎解きに執念を燃やす「フランクリン・マニア」は海底から引き揚げられた遺物の研究に注目するようになった。だが私が興味をもったのはそれとは別の話だ。カナダのノースウェスト準州の奥地に住む男性が、フランクリンの墓を今も探しているという。フランクリン・マニアの系譜は今も絶えることがない。
※ナショナル ジオグラフィック日本版8月号特集「北極探検隊 失踪の謎を追う」より抜粋。
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