前几个月说的声音的工作就是村上春树的这本散文集哇。
『走ることについて語るときに僕の語ること』(《当我谈跑步时我谈些什么》)
俳優の大沢たかおさん(55)が、音声でコンテンツを配信するサービス「Amazonオーディブル(以下、Audible)」で、22日から配信される村上春樹さんのエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』の朗読を担当します。収録を終えた大沢さんに、作品への想いや、そこから考えた自身の生き方についてお話を伺いました。
https://t.cn/A6lqaeIX
大沢たかおさん、村上春樹作品の朗読で振り返る20、30代。葛藤の連続から抜け出せた理由とは
村上さんの違う一面を見た
――まずは原作を読んだ感想を教えてください。
大沢たかおさん(以下、大沢): 僕が初めてこの作品を読んだのは少し前のことなのですが、その時は村上さんのことをあまりよく存じ上げていなかったんです。だけど「すごい人」ということは世の常識として知っていたので、本書でご自分のことを割と赤裸々に、かつとてもすてきに書かれていたことに驚きました。すごく人間っぽくて「雲の上の天才」とはまた違う一面を見せてくれたような印象がありました。
――では、今回のオファーを聞いた時のお気持ちは?
大沢: まさか自分がこの本を読むことになるとはもちろん思っていなかったんですよ。「村上春樹さんの作品を朗読してもらえないか」というお話を最初に聞いた時、小説だと自分にはちょっと難しいかなと思ったんです。でも、朗読するのが『走ることについて語るときに僕の語ること』とうかがって「この作品だったら、もしかしたらできるかも」と思いました。
――「この作品ならできるかも」と思われた理由はどんなところにあったのでしょうか。
大沢: 僕が好きなエッセイというジャンルだったこともありますが、等身大の人間という位置から、村上さんが色々なものを観察して表現しているなと感じました。そこにはとても美しい文学的表現や詩的表現もあり、年代を問わず楽しめる本に仕上げられているなと思ったんです。僕が何か取り繕って読むよりも、そのままの自分で読むことができる作品なのかなと思い、お受けしました。
句読点にも大きな意味がある
――私は原作を読みながら大沢さんの朗読を聞いてみたのですが、原作で読点が打っていないところでも半拍(はんぱく)あけて読まれていたり、括弧(かっこ)内は少し協調したり感情を込めたりしていましたよね。そういうちょっとした違いを見つけるのもおもしろかったです。
大沢: 句読点がないところの間をどうするかはすごく迷いました。僕個人としては、やっぱり原作に書かれた句読点の通りに読むべきだと思うんです。文学ってそこに意味があるから、変えてしまうと全然違ってしまう。だけど、読んでいると少しずつ自分の感情が入ってきてしまって、自分の等身大で読んでみようとしたら、句読点がないところにも間をあけたくなってしまうんですよね。なので、もしそこが違っていたら村上さんに申し訳ないなと思うんですけど、そこに関してはディレクションサイドが放任してくれたので、自分の気持ちで読ませてもらったところはあるかもしれないです。
――俳優としてドラマや映画に出演される時と、今回のような朗読では表現の仕方に違いはありましたか?
大沢: 芝居と朗読は全く違って、似て非なるものだと思います。僕はこの仕事(朗読)を専門にする人じゃないから朗読の面白さはまだ分からないけど、何日間もスタジオにこもって一人で話し続けるのは大変なことでした。でも、ゆっくり読む時間をとって村上さんの追体験をすることができたし、声に出して読むことでそこに込められた色々なメッセージを自分の記憶の中により残すことができたので、今回の朗読を担当させてもらってよかったなと思います。
パリコレで経験した挫折
――村上さんは本作の中で「20代の10年間で僕の世界観は少なからぬ変化を遂げた」と書かれていましたが、大沢さんは20代の時と現在とで、お仕事に対する向き合い方や人生観に変化はありましたか?
大沢: 僕は大学時代からファッションモデルをやっていて、当時はそちらの仕事に重きを置いていました。でもその後、縁があって芝居をする環境になって、何となく続いたという感じなんですよ。20代はとにかく周りの環境が変化していたし、自分というものが定まっていなかったかもしれないです。
「変化」ということで言うと、村上さんに共感するところがあるんじゃないかなと勝手に思っています。僕はファッションにすごく愛着があったので、モデルの仕事も嫌いじゃなかった。だけどパリコレで挫折を経験して、なんとなく俳優をすることになったのは、村上さんが昔ジャズ喫茶を経営しながら、なんとなく小説を書いてみたことに似ているかもしれないです。村上さんが今回の作品で音楽のことを表現されているのもその時の名残があると思うので、ちょっと近いところがあるのかなと感じています。
――以前、ラジオ番組に出演された際、ご自身の人生を振り返って「10代、20代、30代は『葛藤』」と仰っていましたが、その葛藤とはどんなものだったのでしょうか?
大沢: 若い時って理想の自分と現実の自分のギャップに苦しむことがあるじゃないですか。ある程度粋がっていないとやっていられないこともあるし、変に達観して、世の中のことが分かってもつまらないでしょう。そういう中で、新しいアイディアや表現が生まれたり、新しい時代が出てきたりするので、20代や30代はそういう葛藤の連続だった気がします。
その葛藤に対してある種の諦めみたいなものが、年齢を重ねていくとだんだん入ってきて、意地とかプライドみたいなものが薄らいでいったんです。その「諦め」というのは決して悪い意味ではなく、自分の中の凝り固まっていた何かが少しずつ解けていったからだと思うんですよね。今も自分の中に葛藤がなくなったわけじゃないけど、以前はどこか肩ひじを張っていた力が、だんだん抜けてきたなと思います。
つまらないことで見栄を張らなくなった
――肩の力が抜けてきたなと感じたのはどんな理由があると思いますか。
大沢: 若い時は自分の実力なんて分からないけど、壁にぶつかったり、いろんな目にあったりして、自分の大きさがだんだん見えてきますよね。そうすると、自分の身を固めていた余計なものが徐々にはがれ落ちて、つまらないことで見栄を張らなくなってくるし、そこに意味を感じなくなる。そもそも、自分はこれくらいの大きさなのに、若い時はそのサイズがわからないから自分のことを無限に大きく設定してしまう。そこでどうしても理想と現実にぶつかっちゃうんだけど、50歳越えてもまだ自分の大きさを勘違いしているという人は少ないと思うし、痛みがあって傷ついて、余計なものが削れていく中で、みんな「自分」を知っていくのだと思います。
『走ることについて語るときに僕の語ること』(《当我谈跑步时我谈些什么》)
俳優の大沢たかおさん(55)が、音声でコンテンツを配信するサービス「Amazonオーディブル(以下、Audible)」で、22日から配信される村上春樹さんのエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』の朗読を担当します。収録を終えた大沢さんに、作品への想いや、そこから考えた自身の生き方についてお話を伺いました。
https://t.cn/A6lqaeIX
大沢たかおさん、村上春樹作品の朗読で振り返る20、30代。葛藤の連続から抜け出せた理由とは
村上さんの違う一面を見た
――まずは原作を読んだ感想を教えてください。
大沢たかおさん(以下、大沢): 僕が初めてこの作品を読んだのは少し前のことなのですが、その時は村上さんのことをあまりよく存じ上げていなかったんです。だけど「すごい人」ということは世の常識として知っていたので、本書でご自分のことを割と赤裸々に、かつとてもすてきに書かれていたことに驚きました。すごく人間っぽくて「雲の上の天才」とはまた違う一面を見せてくれたような印象がありました。
――では、今回のオファーを聞いた時のお気持ちは?
大沢: まさか自分がこの本を読むことになるとはもちろん思っていなかったんですよ。「村上春樹さんの作品を朗読してもらえないか」というお話を最初に聞いた時、小説だと自分にはちょっと難しいかなと思ったんです。でも、朗読するのが『走ることについて語るときに僕の語ること』とうかがって「この作品だったら、もしかしたらできるかも」と思いました。
――「この作品ならできるかも」と思われた理由はどんなところにあったのでしょうか。
大沢: 僕が好きなエッセイというジャンルだったこともありますが、等身大の人間という位置から、村上さんが色々なものを観察して表現しているなと感じました。そこにはとても美しい文学的表現や詩的表現もあり、年代を問わず楽しめる本に仕上げられているなと思ったんです。僕が何か取り繕って読むよりも、そのままの自分で読むことができる作品なのかなと思い、お受けしました。
句読点にも大きな意味がある
――私は原作を読みながら大沢さんの朗読を聞いてみたのですが、原作で読点が打っていないところでも半拍(はんぱく)あけて読まれていたり、括弧(かっこ)内は少し協調したり感情を込めたりしていましたよね。そういうちょっとした違いを見つけるのもおもしろかったです。
大沢: 句読点がないところの間をどうするかはすごく迷いました。僕個人としては、やっぱり原作に書かれた句読点の通りに読むべきだと思うんです。文学ってそこに意味があるから、変えてしまうと全然違ってしまう。だけど、読んでいると少しずつ自分の感情が入ってきてしまって、自分の等身大で読んでみようとしたら、句読点がないところにも間をあけたくなってしまうんですよね。なので、もしそこが違っていたら村上さんに申し訳ないなと思うんですけど、そこに関してはディレクションサイドが放任してくれたので、自分の気持ちで読ませてもらったところはあるかもしれないです。
――俳優としてドラマや映画に出演される時と、今回のような朗読では表現の仕方に違いはありましたか?
大沢: 芝居と朗読は全く違って、似て非なるものだと思います。僕はこの仕事(朗読)を専門にする人じゃないから朗読の面白さはまだ分からないけど、何日間もスタジオにこもって一人で話し続けるのは大変なことでした。でも、ゆっくり読む時間をとって村上さんの追体験をすることができたし、声に出して読むことでそこに込められた色々なメッセージを自分の記憶の中により残すことができたので、今回の朗読を担当させてもらってよかったなと思います。
パリコレで経験した挫折
――村上さんは本作の中で「20代の10年間で僕の世界観は少なからぬ変化を遂げた」と書かれていましたが、大沢さんは20代の時と現在とで、お仕事に対する向き合い方や人生観に変化はありましたか?
大沢: 僕は大学時代からファッションモデルをやっていて、当時はそちらの仕事に重きを置いていました。でもその後、縁があって芝居をする環境になって、何となく続いたという感じなんですよ。20代はとにかく周りの環境が変化していたし、自分というものが定まっていなかったかもしれないです。
「変化」ということで言うと、村上さんに共感するところがあるんじゃないかなと勝手に思っています。僕はファッションにすごく愛着があったので、モデルの仕事も嫌いじゃなかった。だけどパリコレで挫折を経験して、なんとなく俳優をすることになったのは、村上さんが昔ジャズ喫茶を経営しながら、なんとなく小説を書いてみたことに似ているかもしれないです。村上さんが今回の作品で音楽のことを表現されているのもその時の名残があると思うので、ちょっと近いところがあるのかなと感じています。
――以前、ラジオ番組に出演された際、ご自身の人生を振り返って「10代、20代、30代は『葛藤』」と仰っていましたが、その葛藤とはどんなものだったのでしょうか?
大沢: 若い時って理想の自分と現実の自分のギャップに苦しむことがあるじゃないですか。ある程度粋がっていないとやっていられないこともあるし、変に達観して、世の中のことが分かってもつまらないでしょう。そういう中で、新しいアイディアや表現が生まれたり、新しい時代が出てきたりするので、20代や30代はそういう葛藤の連続だった気がします。
その葛藤に対してある種の諦めみたいなものが、年齢を重ねていくとだんだん入ってきて、意地とかプライドみたいなものが薄らいでいったんです。その「諦め」というのは決して悪い意味ではなく、自分の中の凝り固まっていた何かが少しずつ解けていったからだと思うんですよね。今も自分の中に葛藤がなくなったわけじゃないけど、以前はどこか肩ひじを張っていた力が、だんだん抜けてきたなと思います。
つまらないことで見栄を張らなくなった
――肩の力が抜けてきたなと感じたのはどんな理由があると思いますか。
大沢: 若い時は自分の実力なんて分からないけど、壁にぶつかったり、いろんな目にあったりして、自分の大きさがだんだん見えてきますよね。そうすると、自分の身を固めていた余計なものが徐々にはがれ落ちて、つまらないことで見栄を張らなくなってくるし、そこに意味を感じなくなる。そもそも、自分はこれくらいの大きさなのに、若い時はそのサイズがわからないから自分のことを無限に大きく設定してしまう。そこでどうしても理想と現実にぶつかっちゃうんだけど、50歳越えてもまだ自分の大きさを勘違いしているという人は少ないと思うし、痛みがあって傷ついて、余計なものが削れていく中で、みんな「自分」を知っていくのだと思います。
-こんなことはもういやなのに、なんでなんだよッ
-待てっ 渚カヲルッ
-遅いよ、来ないのかと思った
-なんでなんだ!使徒のくせに!敵のくせに!どうして僕になれなれしく近づいたりしたんだ どうせ戦うことになるのに、なんでそんな余計な事したんだよ!
-誰も乗っていないはずなのに、君がやってるのか!
-エヴァは僕と同じ体でできている、僕もエヴァも同じアダムから生まれたものだからね。魂さえなければ同化できるんだよ、この弐号機の魂は今、自ら閉じこもっているから
-じゃあやめろよ!僕は君と戦いたくなんかないんだ!
-なんで?僕のこと好きでもないし、友だちとも思ってないんだろ?
晚安
-待てっ 渚カヲルッ
-遅いよ、来ないのかと思った
-なんでなんだ!使徒のくせに!敵のくせに!どうして僕になれなれしく近づいたりしたんだ どうせ戦うことになるのに、なんでそんな余計な事したんだよ!
-誰も乗っていないはずなのに、君がやってるのか!
-エヴァは僕と同じ体でできている、僕もエヴァも同じアダムから生まれたものだからね。魂さえなければ同化できるんだよ、この弐号機の魂は今、自ら閉じこもっているから
-じゃあやめろよ!僕は君と戦いたくなんかないんだ!
-なんで?僕のこと好きでもないし、友だちとも思ってないんだろ?
晚安
(虽然理所应当来说不应该评价,但我确实觉得在我的观念里,没有粗盐这个前提的作品描绘的关系都很怪,要么跟原作偏差太大,要么趣味真的不行……)
就当做是affettuoso的版本全收集,先看到了初代商业合志里的版本。感觉嘘泣的情感刻画真的很细腻,方式也很美丽。最先注意到的是几个翻译的地方。
お前やっぱりオレの事相当嫌いだろ
オレの事を想ってくれているんだろうな
这个前后变化的语气能翻出来的话会很漂亮,不过确实不好翻。我会倾向于把第一次译成“你果然相当讨厌我吧”,用不完全爆破的音去代替这个快速简单的结句,而第二次是“一直都在想着我是吧”,因为语气要长和缓一点……如果有别的软一点的音节能代替的话就更好了,推量形有什么更丰富些的译法呢。
それ以上の理由など無いわ
和一些我没拍进来的だ和よ
我最先想的是“没有更深的原因啦”,感觉这个不是很口语表达,所以汉化组的“除此以外,没有别的原因了”也不错,用边音代替わ的轻快口气,而且“除此以外”也确实可以察觉点不对劲。也就是初空实际上在隐藏事实,但他的回答比初云笑着问的还要指向精确一些,意思是“并不是对你有什么特别感情”,但他又真的没怎么抗拒,语气并不是很硬,还有点慌。是それ以上而不是それ以外。
嘘泣的初空整体会轻盈一点,反正就是很难想到浪川用的那个池面声线的感觉,果然本质少女漫画。因此だ还稍微粗一些,よ就真的挺弱气的。初云的ね也用得很好,不如说因为是原作唯一台词所以大家都还分析得不错……
僕は忙しい
这个本身就和酷先生的“我很忙”一样翻就好,这样结句在汉语语境里倒也确实有烦躁和傲慢的,上位者的意思,但也不至于非常不礼貌。但前面有这句余計なお世話だよ,因此接下来这句也稍微长一点比较好,所以变成“我很忙的”就很合适了。
汉化组的译法是“多管闲事,我很忙的”,虽然能理解去掉了这个だよ以方便翻译,但觉得语气确实不太对了。如果是配音的话,这四个字到结尾就要拉长一点或者带点情绪。纸面的话我觉得可以多加几个字,“你是在多管闲事”“多管闲事哦”这类的感觉吧……
就当做是affettuoso的版本全收集,先看到了初代商业合志里的版本。感觉嘘泣的情感刻画真的很细腻,方式也很美丽。最先注意到的是几个翻译的地方。
お前やっぱりオレの事相当嫌いだろ
オレの事を想ってくれているんだろうな
这个前后变化的语气能翻出来的话会很漂亮,不过确实不好翻。我会倾向于把第一次译成“你果然相当讨厌我吧”,用不完全爆破的音去代替这个快速简单的结句,而第二次是“一直都在想着我是吧”,因为语气要长和缓一点……如果有别的软一点的音节能代替的话就更好了,推量形有什么更丰富些的译法呢。
それ以上の理由など無いわ
和一些我没拍进来的だ和よ
我最先想的是“没有更深的原因啦”,感觉这个不是很口语表达,所以汉化组的“除此以外,没有别的原因了”也不错,用边音代替わ的轻快口气,而且“除此以外”也确实可以察觉点不对劲。也就是初空实际上在隐藏事实,但他的回答比初云笑着问的还要指向精确一些,意思是“并不是对你有什么特别感情”,但他又真的没怎么抗拒,语气并不是很硬,还有点慌。是それ以上而不是それ以外。
嘘泣的初空整体会轻盈一点,反正就是很难想到浪川用的那个池面声线的感觉,果然本质少女漫画。因此だ还稍微粗一些,よ就真的挺弱气的。初云的ね也用得很好,不如说因为是原作唯一台词所以大家都还分析得不错……
僕は忙しい
这个本身就和酷先生的“我很忙”一样翻就好,这样结句在汉语语境里倒也确实有烦躁和傲慢的,上位者的意思,但也不至于非常不礼貌。但前面有这句余計なお世話だよ,因此接下来这句也稍微长一点比较好,所以变成“我很忙的”就很合适了。
汉化组的译法是“多管闲事,我很忙的”,虽然能理解去掉了这个だよ以方便翻译,但觉得语气确实不太对了。如果是配音的话,这四个字到结尾就要拉长一点或者带点情绪。纸面的话我觉得可以多加几个字,“你是在多管闲事”“多管闲事哦”这类的感觉吧……
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