信陵君
魏の公子と食客
ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。

他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
趙への援軍
安釐王19年(紀元前258年)、長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。

この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための割符は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命を手向けとさせて頂きます」といった。

そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ自刎した。
信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。

趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだ。もはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言う。

帰国
安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙驁を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。

失脚
函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。

死後
その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、魏王假3年(紀元前225年)に滅亡する。

なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちに前漢の功臣の一人となる張耳も含まれていた。

また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。

魏无忌(?-前243年),即信陵君。魏国国君安釐王同父异母的弟弟。中国战国末期魏国名将。中国战国时四公子之一。魏无忌出身贵族,礼贤下士,招养门客。曾派门客刺探邻国动静,对秦军东进意图思虑甚深,认为秦必以吞韩并魏为先,故反对亲秦伐韩之策,力劝魏王存韩以保魏。当韩上党与本土被秦截断后,曾主张以魏之安成道作为韩往上党的通道。前258年,秦进围赵都邯郸,魏王虽派晋鄙率军救赵,旋因受秦威胁而止于邺(今临漳西南),魏无忌受赵平原君之托,屡劝魏王发兵无效,即采纳门客候嬴之谋,假魏王宠妾如姬盗得虎符,使力士朱亥追杀晋鄙,夺取兵权,次年,与赵、楚军大破秦军,解邯郸之围。后秦攻魏其急,魏无忌归魏任大将军。后因秦使反间计,魏无忌遭晋鄙旧属谗毁而被魏王派人取代,自此不得志,谢病不朝。前243年卒。魏无忌主持合纵攻秦,以上将军职率韩、赵、魏、楚、燕五国联军大败秦蒙骜军,在战国后期关东六国合纵抗秦的过程中起了重要作用。魏无忌曾与其门客著《魏公子兵法》,已佚。

公孫衍
生涯
秦の恵文君5年(紀元前333年)、大良造に任じられた。翌恵文君6年(紀元前332年)、秦は魏の上郡雕陰(現在の陝西省延安市甘泉県の南)を取るため公孫衍(公子卬)率いる軍を派兵した。魏は龍賈を主将とする軍でこれに当たったが2年にわたる激戦の末、龍賈率いる魏軍は敗れ4万5千または8万の兵を討たれ、龍賈は生捕りにされた。魏はこの戦役において河西郡と上郡を防衛する戦力全てを失い、魏の恵王は翌年河西郡全域を秦に割譲し、秦は魏に占領されていた河西地区一帯を取り返した。

『史記』によると蘇秦は秦が自らが補佐する趙を攻めることを恐れており、張儀が秦に向かうよう仕向けた。

同年、秦は斉と魏に公孫衍を使者として派遣し、両国を騙して趙を攻めさせた。趙の粛侯が蘇秦を責めたため、蘇秦は慌てて燕に赴き斉を攻撃するよう依頼し、蘇秦はそのまま趙を離れた。これにより蘇秦が締結させた反秦の六国同盟は崩壊することとなった。

公孫衍は恵文王に他国を攻めるための策として、魏との一時的な和睦を提案した。この時、張儀は恵文王と面会し、今魏は四面の国を敵に回しており、逆に他国を使って魏を討ち、その覇権を崩す好機であると説いた。恵文王は張儀を宰相とし、その献策を用いたため公孫衍は秦を去ると魏に入りその将軍となった。

魏の国力は衰退していたため、公孫衍は他の国と連合して周辺国と戦う策を用いた。

恵文君13年(紀元前325年)、斉の将軍の田盼と共同して韓と趙の将軍の韓挙と趙護を平邑(現在の河南省濮陽市南楽県)と新城(現在の河南省洛陽市伊川県の南西)で破り、斉は平邑を取った。
恵文王2年(紀元前323年)、公孫衍は魏・韓・趙・燕・中山国の五国で連盟を組み、各国の王を対等な王とすることで秦・斉・楚と言った大国や張儀の連衡策に対抗する策として働きかけた(五国相王(中国語版))。しかしこの策は張儀が斉や楚に働きかけたことにより楚が魏を討つために出兵し頓挫した。また魏の宰相である恵施が斉や楚と連合を組む活動を行なったが、失敗し追放されることとなった。

恵文王3年(紀元前322年)、張儀は魏の恵王に遊説し、秦と魏が連衡して韓を攻め秦は三川、魏は南陽を取ることを提案した。恵王はこれに同意し、張儀を魏の宰相として迎えた。公孫衍は韓の宣恵王に遊説し、南陽を直接魏に割譲すれば秦と魏の連衡は崩れ去ると提案した。宣恵王はこれを容れ南陽を魏に割譲したため、公孫衍は張儀の功績を横取りする形となり恵王から褒賞を得た。

恵文王6年(紀元前319年)、魏は張儀を罷免・追放し秦に帰した。さらに魏・韓・趙・燕・楚で合従して秦を攻めようと謀り、公孫衍を相国の地位に昇進させ、追放していた恵施を帰国させ五国による合従を結成させた。

恵文王7年(紀元前318年)、公孫衍は五国合従軍を率いて秦の函谷関を攻めた。合従軍の総指揮官は楚の懐王が務めることとなり、公孫衍はさらに義渠にも秦を攻めるよう働きかけた。しかし各国の利害関係の元、実際に参戦したのは魏・趙・韓の三国と李帛(現在の甘粛省天水市の東)で秦と戦った義渠に過ぎず、この戦いは合従軍の敗北に終わった(函谷関の戦い)。

公孙衍(生卒年不详),战国时期魏国阴晋(今陕西省华阴市东)人,纵横家。因曾任魏国犀首(官名),史书多以犀首称之。
公孙衍最初出仕魏国,担任犀首一职,在徐州相王时期主张明面与齐国交好、暗中交结楚国的策略。秦惠文王五年(魏惠王后元二年,前333年),离魏入秦,被秦惠文王拜为大良造,在雕阴之战中为秦国攻取魏国的河西之地。魏惠王后元六年(前329年),离秦返魏,在陉山之战中击败楚威王。魏惠王后元十年(前325年),联齐伐赵,攻取平邑、新城。魏惠王后元十二年(前323年),发起五国相王,来联合多国合纵抗秦,但效果不佳。次年张仪便相魏连横。魏惠王后元十六年(前319年),魏国逐走张仪,公孙衍升任魏相。魏襄王元年(前318年),发动五国合纵伐秦的军事行动,攻至函谷关,并拉拢义渠策应;但后来战事失利,各国退兵。约魏襄王三年(前316年),因与田需政斗失败,被迫离开魏国出任韩相,并介绍田文担任魏相,从而继续合纵的战略。韩宣惠王十九年(魏襄王五年,前314年),在岸门之战中被秦军大败,标志着其主导的合纵最终失败。其后公孙衍回魏继续担任魏将,一说还曾二次入秦为官。晚年,在魏昭王三年(前293年)伊阙之战后,奉命出使秦国求和。
公孙衍是纵横学派的代表人物,其主导的合纵声势煊赫,在战国影响深远。时人景春曾评价他:“公孙衍、张仪岂不诚大丈夫哉?一怒而诸侯惧,安居而天下熄。”

張儀
史記による略歴
恥辱
張儀は若い頃、蘇秦と共に鬼谷子に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、楚の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。傷だらけの張儀は妻に対し「舌はまだついているか?」と聞き、ついていると返答されると「舌さえあれば十分だ」と答えたと言う。

その後も不遇だった張儀はすでに趙で出世していた蘇秦を頼って行った。しかし予期に反して大いに侮辱されたため、発奮した張儀はこの屈辱をばねに秦に仕官する事が出来た。だが、この時仕官に必要だった資金は蘇秦がひそかに出したものだった。燕と趙を同盟させた蘇秦は、張儀が秦で出世して同盟が定着するまで趙を攻めないよう秦王に働きかけさせるためにわざと張儀を侮辱したのである。人からその話を聞いた張儀は感じ入り「蘇君が在命のうちは自分にはなにもできない」とへりくだった。

秦の宰相
張儀はその後、魏を討ち、上郡・少梁を獲得した功績で宰相となった。しかし魏が斉に接近するようになると、魏に仕官して魏の宰相となり、このまま秦に攻撃されても他国が頼むに足らないことを説き、秦と魏の同盟を成立させることで連衡を成功させ、再び秦の宰相となった。この際、かつて張儀を袋叩きにした楚の宰相に対し、「あなたはかつて私を疑い、ひどい目にあわせたが、今度は本当にあなたの城を奪ってやる。」との文を送りつけたと言われている。

恵文王9年(紀元前316年)、蜀に内紛が起きたのでこれに乗じるべきかと恵文王に問われた時に張儀は韓を攻めて、周を恫喝し、天下に号令すべきと説いたが、恵文王は司馬錯の献言に従い蜀を占領した。

楚への復讐
恵文王12年(紀元前313年)、張儀は対楚工作に入り、楚に対し商・於の地六百里四方を割譲するから、斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄して、将軍に秦に領土を受け取りに行かせたが、張儀は六里四方の土地を割譲すると言った。これに楚の将軍は約束は六百里だと猛烈に抗議するが張儀はとぼけて相手にしなかった。

懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗する(藍田の戦い)。その後、秦から楚に土地を割譲する事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい」と言い、これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫である鄭袖に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った鄭袖は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。こうして張儀は強国である斉と楚の同盟を崩した上で楚を叩き、和睦にも成功することで合従を崩した。

恵文王14年(紀元前311年)、恵文王が薨去し、張儀とは不仲であった太子蕩が即位し武王となった。張儀は誅殺を恐れ、策があるからと言って魏に逃げ、魏の宰相となって一年後に没した。

史記の記述における矛盾
上記は『史記』によるものだが、後世の研究において蘇秦の記述について矛盾が指摘されている。1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正されたが、それによると蘇秦は張儀よりも後の時代に活躍した人であった。

张仪(?一前309年),魏国安邑(今山西运城万荣)人,中国战国时期政治家、外交家、纵横家。
张仪早年师从鬼谷子,后曾游历于楚国、赵国,不被重用,愤而入秦,以连横之策被秦惠文王重用,并两度出任秦相。张仪入秦后,多次领兵攻打韩、赵、魏等国。前328年,与公子华拔魏蒲阳;前325年,魏、韩两国互尊为王以抗秦,张仪率兵攻占魏国的陕(今河南陕县);前324年,张仪拥戴秦惠王正式称王,更年号为秦惠王元年;前316年,张仪与司马错灭蜀,并乘机攻取巴,设立巴郡、蜀郡和汉中郡。张仪任秦相之后,多次出使山东六国,以连横之策游说山东诸国,以破合纵之策,使各国纷纷由合纵抗秦变为连横事秦。张仪被秦惠文王封为武信君。前311年,张仪出使燕国未回而秦惠文王死。次年,秦武王即位,与张仪不和。张仪害怕被诛杀,于是逃到了魏国。张仪任魏国相国一年以后,于前309年卒于魏国。
在《汉书·艺文志》纵横家类有《张子》10篇,是张仪作品及其相关资料的汇编,此书汉以后亡佚。传世的一件战国铜戈上有“十三年相邦仪之造”和“咸阳工师”的铭文,当是秦惠文王十三年张仪任相邦时所监造。张仪两任秦相期间,分化合纵,蚕食列国领土,攻克巴蜀,使秦国的领土几乎扩大了一倍,为秦国最终统一天下奠定了厚实的基础。

秋山図(下)
芥川龍之介

煙客翁が私わたしにこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星霜せいそうを経過した後のちだったのです。その時は元宰げんさい先生も、とうに物故ぶっこしていましたし、張氏ちょうしの家でもいつの間まにか、三度まで代が変っていました。ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されているか、いや、未いまだに亀玉きぎょくの毀やぶれもないか、それさえ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるように、秋山図の霊妙を話してから、残念そうにこう言ったものです。
「あの黄一峯は公孫大嬢こうそんたいじょうの剣器けんきのようなものでしたよ。筆墨はあっても、筆墨は見えない。ただ何とも言えない神気しんきが、ただちに心に迫って来るのです。――ちょうど龍翔りょうしょうの看かんはあっても、人や剣つるぎが我々に見えないのと同じことですよ」
 それから一月ひとつきばかりの後のち、そろそろ春風しゅんぷうが動きだしたのを潮しおに、私は独り南方へ、旅をすることになりました。そこで翁おうにその話をすると、
「ではちょうど好いい機会だから、秋山しゅうざんを尋ねてご覧らんなさい。あれがもう一度世に出れば、画苑がえんの慶事けいじですよ」と言うのです。
 私ももちろん望むところですから、早速翁を煩わずらわせて、手紙を一本書いてもらいました。が、さて遊歴ゆうれきの途とに上ってみると、何かと行く所も多いものですから、容易に潤州じゅんしゅうの張氏の家を訪れる暇ひまがありません。私は翁の書を袖そでにしたなり、とうとう子規ほととぎすが啼なくようになるまで、秋山しゅうざんを尋ねずにしまいました。
 その内にふと耳にはいったのは、貴戚きせきの王氏おうしが秋山図を手に入れたという噂うわさです。そういえば私わたしが遊歴中、煙客翁えんかくおうの書を見せた人には、王氏を知っているものも交まじっていました。王氏はそういう人からでも、あの秋山図が、張氏ちょうしの家に蔵してあることを知ったのでしょう。何でも坊間ぼうかんの説によれば、張氏の孫は王氏おうしの使を受けると、伝家の彝鼎いていや法書とともに、すぐさま大癡たいちの秋山図を献じに来たとかいうことです。そうして王氏は喜びのあまり、張氏の孫を上座に招じて、家姫かきを出したり、音楽を奏したり、盛な饗宴きょうえんを催したあげく、千金を寿じゅにしたとかいうことです。私はほとんど雀躍じゃくやくしました。滄桑五十載そうそうごじっさいを閲けみした後のちでも、秋山図はやはり無事だったのです。のみならず私も面識がある、王氏の手中に入ったのです。昔は煙客翁がいくら苦心をしても、この図を再び看みることは、鬼神きじんが悪にくむのかと思うくらい、ことごとく失敗に終りました。が、今は王氏の焦慮しょうりょも待たず、自然とこの図が我々の前へ、蜃楼しんろうのように現れたのです。これこそ実際天縁が、熟したと言う外ほかはありません。私は取る物も取りあえず、金阊きんしょうにある王氏の第宅ていたくへ、秋山を見に出かけて行きました。
 今でもはっきり覚えていますが、それは王氏の庭の牡丹ぼたんが、玉欄ぎょくらんの外そとに咲き誇った、風のない初夏の午過ひるすぎです。私は王氏の顔を見ると、揖ゆうもすますかすまさない内に、思わず笑いだしてしまいました。
「もう秋山図はこちらの物です。煙客先生もあの図では、ずいぶん苦労をされたものですが、今度こそはご安心なさるでしょう。そう思うだけでも愉快です」
 王氏も得意満面でした。
「今日きょうは煙客先生や廉州れんしゅう先生も来られるはずです。が、まあ、お出でになった順に、あなたから見てもらいましょう」
 王氏は早速かたわらの壁に、あの秋山図を懸かけさせました。水に臨んだ紅葉こうようの村、谷を埋うずめている白雲はくうんの群むれ、それから遠近おちこちに側立そばだった、屏風びょうぶのような数峯の青せい、――たちまち私の眼の前には、大癡老人が造りだした、天地よりもさらに霊妙な小天地が浮び上ったのです。私は胸を躍おどらせながら、じっと壁上の画を眺めました。
この雲煙邱壑うんえんきゅうがくは、紛まぎれもない黄一峯こういっぽうです、癡翁ちおうを除いては何人なんぴとも、これほど皴点しゅんてんを加えながら、しかも墨を活いかすことは――これほど設色せっしょくを重くしながら、しかも筆が隠れないことは、できないのに違いありません。しかし――しかしこの秋山図は、昔一たび煙客翁が張氏の家に見たという図と、たしかに別な黄一峯こういっぽうです。そうしてその秋山図しゅうざんずよりも、おそらくは下位にある黄一峯です。
 私わたしの周囲には王氏を始め、座にい合せた食客しょっかくたちが、私の顔色かおいろを窺うかがっていました。ですから私は失望の色が、寸分すんぶんも顔へ露あらわれないように、気を使う必要があったのです。が、いくら努めてみても、どこか不服な表情が、我知らず外へ出たのでしょう。王氏はしばらくたってから、心配そうに私へ声をかけました。
「どうです?」
 私は言下ごんかに答えました。
「神品です。なるほどこれでは煙客えんかく先生が、驚倒きょうとうされたのも不思議はありません」
 王氏はやや顔色を直しました。が、それでもまだ眉まゆの間には、いくぶんか私の賞讃しょうさんに、不満らしい気色けしきが見えたものです。
 そこへちょうど来合せたのは、私に秋山の神趣を説いた、あの煙客先生です。翁は王氏に会釈えしゃくをする間まも、嬉しそうな微笑を浮べていました。
「五十年前ぜんに秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今日きょうはまたこういう富貴ふうきのお宅に、再びこの図とめぐり合いました。まことに意外な因縁です」
 煙客翁はこう言いながら、壁上の大癡たいちを仰ぎ見ました。この秋山がかつて翁の見た秋山かどうか、それはもちろん誰よりも翁自身が明らかに知っているはずです。ですから私も王氏同様、翁がこの図を眺める容子ようすに、注意深い眼を注いでいました。すると果然かぜん翁の顔も、みるみる曇ったではありませんか。
 しばらく沈黙が続いた後のち、王氏はいよいよ不安そうに、おずおず翁へ声をかけました。
「どうです? 今も石谷せきこく先生は、たいそう褒ほめてくれましたが、――」
 私は正直な煙客翁が、有体ありていな返事をしはしないかと、内心冷ひや冷ひやしていました。しかし王氏を失望させるのは、さすがに翁も気の毒だったのでしょう。翁は秋山を見終ると、叮嚀ていねいに王氏へ答えました。
「これがお手にはいったのは、あなたのご運が好よいのです。ご家蔵かぞうの諸宝しょほうもこの後のちは、一段と光彩を添えることでしょう」
 しかし王氏はこの言葉を聞いても、やはり顔の憂色ゆうしょくが、ますます深くなるばかりです。
 その時もし廉州れんしゅう先生が、遅おくれ馳ばせにでも来なかったなら、我々はさらに気まずい思いをさせられたに違いありません。しかし先生は幸いにも、煙客翁の賞讃が渋りがちになった時、快活に一座へ加わりました。
「これがお話の秋山図ですか?」
 先生は無造作むぞうさな挨拶あいさつをしてから、黄一峯こういっぽうの画えに対しました。そうしてしばらくは黙然もくねんと、口髭くちひげばかり噛かんでいました。
「煙客先生えんかくせんせいは五十年前ぜんにも、一度この図をご覧になったそうです」
 王氏はいっそう気づかわしそうに、こう説明を加えました。廉州れんしゅう先生はまだ翁から、一度も秋山しゅうざんの神逸しんいつを聞かされたことがなかったのです。
「どうでしょう? あなたのご鑑裁かんさいは」
 先生は歎息たんそくを洩らしたぎり、不相変あいかわらず画を眺めていました。
「ご遠慮のないところを伺うかがいたいのですが、――」
 王氏は無理に微笑しながら、再び先生を促しました。
「これですか? これは――」
 廉州先生はまた口を噤つぐみました。
「これは?」
「これは癡翁ちおう第一の名作でしょう。――この雲煙の濃淡をご覧なさい。元気淋漓りんりじゃありませんか。林木なぞの設色せっしょくも、まさに天造てんぞうとも称すべきものです。あすこに遠峯が一つ見えましょう。全体の布局ふきょくがあのために、どのくらい活いきているかわかりません」
 今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧かえりみると、いちいち画の佳所かしょを指さしながら、盛さかんに感歎の声を挙あげ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。
 私はその間あいだに煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。
「先生、これがあの秋山図ですか?」
 私が小声にこう言うと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬まばたきを一つしました。
「まるで万事が夢のようです。ことによるとあの張家ちょうけの主人は、狐仙こせんか何かだったかもしれませんよ」
「秋山図の話はこれだけです」
 王石谷おうせきこくは語り終ると、おもむろに一碗の茶を啜すすった。
「なるほど、不思議な話です」
 恽南田うんなんでんは、さっきから銅檠どうけいの焔ほのおを眺めていた。
「その後ご王氏も熱心に、いろいろ尋たずねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体幻まぼろしでもありますまいし、――」
「しかし煙客先生えんかくせんせいの心の中うちには、その怪しい秋山図が、はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の中なかにも、――」
「山石の青緑だの紅葉の硃しゅの色だのは、今でもありあり見えるようです」
「では秋山図がないにしても、憾うらむところはないではありませんか?」
 恽王うんおうの両大家は、掌たなごころを拊うって一笑した。


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