「薬」鲁迅(上)

 
1.
 秋の夜も更け、子の刻はとうに過ぎ、月も落ちた。朝日は未だ出ず、青黒い空の下、夜遊びする者をのぞいて、すべて寝静まっていた。華老栓は忽然、起きだして、マッチをすり、油のこびりついた灯心に火をつけると、茶館の二つの部屋に、青白い火がゆれた。
「とうさん、出かけるかい?」と老女の声。奥の小部屋から、ゴホンゴホンと咳。
「ああ」と老栓は応えながら、ボタンをとめ、手を出して、「だしてくれ」と言った。
かみさんは、枕の下をごそごそまさぐって、銀貨の包を渡した。彼はふるえる手で、隠しにしまいこみ、上から二回押さえて、提灯に火をつけ、灯心を消して、奥に入っていった。奥でも、ごそごそ音がし、続いてゴホンゴホンと咳。老栓は、息子の咳が静まるのを待って、小さな声で、「小栓、起きなくていいよ。店は母さんがやるから」
老栓は、息子が静かになったので、眠ったと思い、戸を開けて街に向かった。街はまだ暗くて、人っ子一人歩いていなかった。白い道がくっきり浮かんで見えた。提灯は足元を一歩一歩照らした。犬が何匹かいたが、一匹も吠えてこなかった。外は部屋よりかなり冷えたが、彼にはかえって爽快だった。まるで青年に戻ったようで、神通力を得て、誰かに生命を与える能力を得たごとく、大股で歩き出した。道も徐々に明るくなって、空も白み始めた。
老栓は歩くだけに専念していたが、はるか向こうに三叉路が見えてきて、びくっとした。
後ずさりして、戸の閉まった店の軒下に入って、戸にもたれて立っていた。だいぶ時間がたって、体が冷えてきた。
「ふん! くそ爺」
 「何だよう。ぬかよろこびさせやがって」
老栓はまた驚いて、目を開くと、何人もの男が目の前を通り過ぎて行った。一人がふり返って、彼をにらんだ。はっきりとはわからないが、長いこと飢えていた男が、やっと獲物にありついたように、目がギラっと光った。提灯の火は消えていた。隠しを確かめたら、硬いのはまだあった。向こうを見たら、怪しげな男たちが二人三人、死人のように徘徊していた。目を凝らしてみたが、別に奇怪なものは見えなかった。暫くすると、兵隊たちが行進してきた。兵服の前と後ろには大きな白い丸がはっきり見えた。目の前を通りすぎる時、暗紅色の縁取りまで見えた。一陣の足音が過ぎ、ちょっと目をはなしている間に、もう大勢になって、あの三々五々の連中も、忽然一体となり、潮のように進んでいった。
三叉路に着くや、立ち止まって半円形になった。
 老栓もそちらを見たが、人だかりの山で、背中しか見えなかった。まるで、見えざる手で、首を持ち上げられたアヒルの群れのように、全員首を伸ばしていた。静けさの中にも小さな音が聞こえていたが、急にざわざわしだすと、ドーンと一発。みな一目散で、後退した。老栓の立っているところまで来て、止まったので、押しつぶされそうだった。
 「さあ、金と引き替えだ!」真っ黒な男が彼の前に仁王立ちして、睨みつけるので、老栓はちぢみあがった。男は大きな手を目の前に突き出し、もう一方の手に、真っ赤なマントウをつかんでいた。赤いのがポタポタたれていた。
老栓はあたふたと銀貨を取り出し、ふるえながら彼に渡そうとするのだが、その物を受け取るのが恐ろしかった。男はいらいらしながら、「なに怖がってるんだ! 早く取れ!」とどなった。老栓がまだぐずぐずしていると、男は提灯をひったくり、べりっとそれを破って、マントウを包んで、老栓に握らせ、銀貨をつかんで、確かめてから身を翻し、「この
くそ爺!」と悪態をつきながら去って行った。
 「誰を治すんだい?」老栓は誰かが話しかけるのが聞こえたようだが、応えなかった。神経はすべて包の中に集中していた。十代続いた直系の嬰児を抱えるように大切にして、他のことは一切考えないことにした。この包の中の新しい生命を、自分の家に移植して、幸福をつかむのだ。
 朝日も出てきた。彼の前に一筋の大きな道が現れ、家の方までまっすぐ伸びていた。三叉路の角には、こわれかけた扁額にうすぼけた金文字で「古□亭口」とあった。
(2番目の□は欠落)。
2.
 老栓が家に戻ると、店は掃除もすみ、きれいに磨かれた茶卓が並んでいた。客はまだいなくて、小栓が奥で、朝飯を食べていた。大粒の汗がひたいからポタポタと落ち、あわせの背中にくっついて、肩甲骨が陽刻の「八」の字のようである。老栓はそれを見て、少し気が重くなった。女房が炊事場から急いで出てきて、唇をふるわせながらじっと見て、
「手に入ったかい?」ときいた。
「ああ」
 二人は炊事場に行き、相談した。カミさんは出て行って、しばらくして大きなハスの葉を手にして戻り、卓上に広げた。老栓も提灯の包を開き、ハスの葉で真っ赤なマントウを包みなおした。小栓も飯をすませたが、母親はあわてて「小栓、そこにいて!こっちに来ちゃダメだよ!」と言った。
 カマドの火を掻いて、老栓は碧緑の包と紅白の破れ提灯をいっしょにカマドに入れた。
紅と黒の火焔が舞い上がり、店中に奇怪な香味がただよった。
 「いいにおいだね。何たべてるの?」せむしの五少爺が入ってきた。この男は毎日茶館で過す。一番に来て、最後までいる。このときものっそりと入ってきて、通りに面した角の卓に着くやいなや、訊いてみたのだが、誰も応答しない。「炒り米の粥かい?」
老栓はあたふたと出てきて、茶を注いだ。
「小栓、おいで!」母親は小栓を奥の部屋に呼んだ。中央に腰かけがあり、そこに坐った。母は真っ黒になったものを差し出した。「お食べ。すぐ良くなるから」と言った。
 小栓は黒いのをつかんで、ちょっとながめて、自分の命をつかんだような、なんともいえない気持ちになった。慎重に半分に割ると、焦げた皮の中から湯気がでた。湯気が消えると、白い小麦粉のマントウだった。 食べ終わるのにさして時間もかからなかったが、どんな味だったか、忘れてしまった。空になった皿が残り、傍らには父親、もう一方には母親がいて、二人の目は、彼の身に何かを注ぎこみ、そしてまた、何かを取り出そうとしているようであった。彼は心臓が跳びはねそうにドキドキするのを抑えきれず、胸をなでおろしたが、またゴホンゴホンと咳き込んだ。
 「お休みな!そしたらすぐ良くなるから」小栓は母に言われる通り、咳をしながら、眠りについた。母は咳が静まるのを待って、ふんわりとつぎだらけの布団をかぶせた。
3.
 客は増え、老栓も忙しくなり、ヤカンから一人ひとりに湯を注いで回った。目はクマができていた。
「老栓、具合でも悪いのかい?病気かい?」ゴマ塩髭の男がきいた。
「いや」
「じゃない。うれしそうに笑っているし、病気にはみえんが」ゴマ塩髭の男は自分の質問を取り消した。
 「老栓は忙しいだけだよ。もし息子が ……」
せむしの五少爺の話がおわらぬうちに、突然、顔の肉がたるんだ男が、黒い着物をボタンもせず、幅広の黒い腰帯をだらりとさせて、闖入してきた。入るなり、老栓に大声で、
「食ったか?良くなったか?老栓、おめえは運のいい奴よ!幸運だ。もし俺様の情報が遅かったら……。」
 老栓はヤカンを手にしながら、恭しく頭を下げ、にこにこして聞いていた。客も恭しく、聞いていた。カミさんも、目にクマをつけながらも、うれしそうに茶碗と茶葉を出し、オリーブも入れると、老栓が湯を注いだ。
 「まかしとけ。今度のは、そんじょそこらのとはわけが違う。熱いうちに取ってきて、熱いうちに食うんだから」肉のたるんだ男は、大声でしゃべり続けた。
 「本当さ。もし康大叔さんのお力添えがなければ、どうしてこんなにうまく……」カミさんも、大変感激して、彼に礼を言った。
「まちがいない。請け負うぜ。こんなふうに熱いうちに食う。この人血マントウなら、どんな肺病だって、すぐ治るさ!」
 カミさんは「肺病」と言われて、顔色が変わり、不満気であったが、作り笑いをして、きまり悪そうにその場を離れていった。康大叔は、そんなことは何も気づかぬがごとくに、
声を張り上げて、騒いでいたが、その騒ぎで寝ていた小栓もいっしょになって咳をしだした。
 「おめーん家の小栓は、こんな幸運にめぐり会えたんだから、きっと治るよ:どうりで、老栓もうれしそうにしているわけだ」ゴマ塩髭がしゃべりながら、康大叔の前に近づき、くぐもった声できいた。「康さん、今日殺されたのは、夏家の子だってそうだが、どの夏さんだい?で、何をやらかしたの?」
 「どのだって!四番目、のに、決ってるじゃないか。あのがきゃー!」康大叔は衆人が
耳をそばだてて聞くので、ことのほかうれしくなってきて、たるんだ肉をゆらしながら、声を荒げて、「あの がきゃー、命はいらねえーって。要らねえーなら、それまでよ。だがな、今日俺は、ひとつもうまい汁にありつけなかったんだ。奴の服も、牢番の赤目の阿義に持ってかれちゃったし。一番運がいいのは栓さんで、二番目は夏の三番目の奴さね。二十五両のピカピカの銀貨を一人占めしやがった。俺たちにはびた一文も分けちゃくれねえ。」

馬王堆漢墓
被葬者
各墓の被葬者は、前漢初期の長沙国で丞相をつとめ初代軑侯となった利蒼(2号墓)、その妻(1号墓)、息子(3号墓)である。

被葬者らを特定する上で手がかりになったのは、3基の墓の位置関係、副葬品である竹行李や土器の罐などの器物につけられた「軑侯家丞」の封泥、漆器に書かれた「軑侯家」の文字、出土した女性の被葬者、2号墓から出土した「利蒼」「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた印章、3号墓から出土した木牘から被葬者の死亡年が前168年と考えられること、軑侯の封建を記した『史記』巻19「恵帝間侯者年表」および『漢書』巻16「高恵高后文功臣表」の記述、などである。これらにより、各墓の被葬者は確実に証明された。
埋葬方式は仰臥伸展葬であり、棺内を満たす約 80 リットルの無色透明の液体に遺体は浸っていた。(この液体は、出土後ほどなくチョコレート色に変色した。)

遺体は2枚の肌着を含む18枚の絹や麻の経帷子を着、9本の帯で縛ったあと、2枚の真綿の衾被がかけられ、合計20枚の衣類に包まれていた。顔には濃い小豆色の錦のハンカチがかけられ、両腕と両足は絹の帯で縛られ、青絹の靴を履いていた。被葬者の開いた口からは舌が突き出て、その顔つきはいまだ生気が残っているかのようだった。

棺は四重で、いずれも梓の板を使い、棺槨と同様に掛け継ぎ、ほぞとほぞ穴、ほぞ釘などの接合方法で組み立てられた。大きさ(長さ×幅×高さ)は外棺が2.95×1.5×1.44メートル、内棺が2.02×0.69×0.63メートルであり、4つの棺が隙間なく重なり合うよう作られていた。四棺とも内壁は朱漆が塗られているが、外壁の装飾が次のように異なる。

外棺は黒漆塗りで、無地だった。
第二棺は黒漆塗の上に複雑な雲気紋と多くの怪神・禽獣の彩色画が描かれていた。
第三棺は朱漆塗の上に龍・虎・朱雀・仙人などを彩色して配した瑞祥図が描かれていた。
遺体を収める内棺は、黒漆塗の上に装飾が施されていた。すなわち、棺に蓋をしたのち2本の絹の帯を横に渡し、棺全体を覆うように絨圏錦(フランネル)で縁取りした羽毛貼花絹が貼り付けられ、錦のように飾り立てられていた。そして蓋板を一幅の帛画が覆っていた。
副葬品は全て辺箱の中に置かれており、1,400点を数えた。「妾辛追」と読むべき綬つきの印章が見つかっており、被葬者は利蒼の妻、姓名は辛追、と判断できる。

医学的所見
病理解剖の結果、遺体は外形のみならず内臓諸器官、さらには繊維性結合組織、筋肉組織、軟骨、血管など微細組織に至るまで、生前の状態に近い良好な保存状態が保たれていた。

女性の年齢は50歳前後。身長154.5センチメートル、体重34.3キログラム、血液型A型、出産経験あり。皮膚表面は褐黄色で(現在は黒色に変色)、皮膚組織はまだ湿潤かつ弾力性を残していた。頭髪はまばらだが白髪は無く、光沢が残り、少し力を入れて引いても抜けなかった。眼球がやや突出し、右鼓膜に穴が開いていた他は感覚器に異常は見られなかった。歯は16本残っていた。四肢の関節は動かすことができ、骨格は末端までほぼ完全であり、脳は 1/3 に萎縮していた。皮下脂肪が各所に見られ、小太りだったと思われる。

被葬者が生前多くの疾病に罹っていたことも判明した。具体的には、冠状動脈性の心臓病(心筋梗塞)、多発性胆石症、全身性の動脈粥状硬化症、血吸虫病など各種の寄生虫病、椎間板ヘルニア、胆嚢の先天的奇形、右腕骨折が確認された。

胃から真桑瓜の種が多数(138粒)出てきたため、被葬者が死亡したのは夏、食後2-3時間後と考えられる。被葬者は栄養状態が良く、長期に病臥した様子も見られないことから、胆石症の痛みが冠状動脈性心臓障害の発作を誘発し急死した、という経過が最も考えられる。ほか、仙丹の服用による水銀中毒・鉛中毒・砒素中毒が死因になった可能性も指摘されている。
湿屍

被葬者の遺体は「湿屍」と呼ばれる特異な保存状態にあった。2100年以上という年代の古さと、その良好な保存状態は、世界の死体保存例のうちでも極めて稀なものであり、医学的にも高い研究価値を持つ。

遺体が良好に保存された要因として、以下の点が挙げられている。

遺体が地中深く埋葬されていた。(盗掘坑があったが、墓室に達していなかった。)
墓室が堅固に構築され、数層の棺槨によって保護されていた
棺槨が木炭層と白膏泥層に包まれ、密封されていた。1号墓に穴をあけた際、ガスの噴出(火洞子、フォトンツ)が起こっており、これは確かに内部が密封されていた証である。
内部の密閉によって、低温と酸素欠乏状態が維持された。
被葬者は皮下脂肪が男性より多く、脂肪が発酵分解して発生したガスが墓室に充満した。結果として温度が一定して細菌の発生を防いだ。
漆、木炭、白膏泥、辰砂(いわゆる朱)、香料が防腐に役立った。
遺体が浸っていた液体には辰砂が含まれており、防腐の役割を果たした。
2号墓
被葬者は初代軑侯、利蒼。
盗掘により、遺骨は散乱した状態だった。副葬品は漆器、武器、陶器など200点がまだ残されており、その中に「利蒼」と刻まれた玉材私印が1個、「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた鍍金亀鈕銅印が各1個ずつ、計3個の印章が見つかり、これが被葬者を特定する決定的証拠になった。

『史記』および『漢書』によると利蒼は前186年(呂后2年)に没しており、埋葬はこの年あるいは1-2年後とみられる。

3号墓
被葬者は利蒼夫妻の息子で二代軑侯、利豨。あるいはその兄弟。

遺体は腐敗して骨格だけが残り、科学的調査から30歳前後の男性と鑑定された。棺は三重で、外棺と中棺はいずれも外側が褐色の漆塗り、内側が朱の漆塗だった。内棺は内外とも漆塗で、刺繍と絨圏錦の縁取りを施した絹で装飾され、また蓋板は一幅の帛画が覆い、棺内の両側板にもそれぞれ各一枚の帛画が掛けられていた。副葬品は全て辺箱の中に置かれており、漆器316点、木俑106個、竹行李53個、遣策など、1,000点を数えた。

副葬されていた木牘から、埋葬年は前168年と見られる。文献では利豨は前165年に没したことになっているため、被葬者は氏名不詳の兄弟と考えられてきたが、近年、利豨の印が出土したため利豨とも考えられる。

中沢琴
「中沢琴」(なかざわこと)は、幕末に男装姿で「浪士隊」(ろうしたい)に参加し、江戸市中の見廻りを担い、治安の維持にあたった女剣士です。江戸、明治、大正、昭和の4つの時代を駆け抜けた中沢琴の生涯はどのようなものだったのでしょう。様々なエピソードと共に、彼女の人生をひも解きます。
幕末の激動の時代を女剣士として駆け抜けた中沢琴
現在の群馬県利根郡に生まれた中沢琴は、父が剣術道場を営んでいたことから、幼い頃より剣術を学び、なかでも薙刀においては師匠である父をも凌ぐ腕前であったと言われています。
身長は当時の女性としては非常に高い170cmほどもあり、面長で目鼻立ちの整った容姿の中沢琴が男装すると、女性から言い寄られることも多く、困ったという逸話も残ります。彼女が剣の道に生きた足跡を簡単に振り返りましょう。

兄と共に「浪士隊」に参加

中沢琴を語るうえで欠かせないのが、女性でありながら浪士隊に参加していたことです。1863年(文久3年)、上洛する将軍・「徳川家茂」(とくがわいえもち)の警護を名目に、庄内藩出身の清河八郎が、江戸で浪士隊を募ります。これに中沢琴の兄・「中沢貞祗」(なかざわさだまさ)が参加を表明し、中沢琴も男装して兄と共に京へと上ったとされています。

この浪士隊には、そのまま京都に残り「新選組」を結成した「近藤勇」(こんどういさみ)、「土方歳三」(ひじかたとしぞう)、「沖田総司」(おきたそうじ)なども名を連ねていました。

「新選組」と「新徴組」
浪士隊をもとに生まれたのが、新選組と「新徴組」(しんちょうぐみ)です。この2つの組織はどちらも、倒幕思想を掲げ武力衝突も辞さないとする勤王の浪士達を制圧するため組織で、京では新選組を名乗り、江戸では新徴組と呼ばれたのです。中沢琴はここでもまた男装をして、兄と共に新徴組に参加していました。

新徴組での中沢琴の活躍
兄・貞祗が記した新徴組記録や2人の郷土の文献には、中沢琴の新徴組での様子がはっきりと描かれています。「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を引き起こすきっかけになった江戸薩摩屋敷などの襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られたこと。

また、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が破れた報を受け、庄内藩(山形県)藩士と共に庄内に入り、新政府軍相手の庄内戦争に参戦。官軍の砲火を浴びながら奮戦し、官軍十数人に囲まれるものの、2、3人を切り伏せ、たじろぐ敵中を突破して逃げ延びたことなど、幕末から明治にかけての激動の時代の真っただ中に、女剣士・中沢琴の姿があったことがよく分かります。

薩摩藩の意向で、庄内戦争の処分は軽くなり、中沢琴と兄は、1875年(明治7年)、故郷の利根に戻っています。
中沢琴が活躍した徳川幕府の警備組織「新徴組」とは?
幕末から明治にかけて、女剣士として時代を駆け抜けた中沢琴。彼女が参加した徳川幕府の警備組織新徴組とは、具体的にはどのような組織だったのでしょうか。

中沢琴が自身の剣術を生かし活躍した新徴組
中沢琴は、おそらく女性であったゆえでしょう。最初に参加した浪士隊にも、その後の新徴組にも、メンバーとして名前は記されていません。しかし、いくつかの文献に、その活躍の様子はしっかりと描かれています。
彼女が自分の得意とする剣術を生かして生きた場所であった新徴組について、ご紹介しましょう。

「浪士隊」とは?
その前にまず、新徴組が誕生するそもそものきっかけとなった浪士隊結成の経緯について。これには諸説ありますが、尊王攘夷論者の「清河八郎」が攘夷を断行するために、1863年(文久3年)の徳川家茂の上洛を利用したものだというのが有力です。

時の将軍・家茂の警備のためとして、八郎が発起人となり、浪士隊の参加者を募ります。八郎は、腕に覚えがあれば、犯罪者でも農民でも、また年齢も関係なく参加できるという、ある意味画期的な組織をつくり、京へ上洛後に浪士隊全員の署名を記した建白書を朝廷へ提出。その上で、浪士隊を幕府から切り離した組織にして、急進的な尊皇活動に利用してしまおうと考えていたのです。

しかし、八郎の目論見は、無尽蔵に参加者を募ったことにより、彼の想定を超える大所帯(約230名)となり、意見の一致をみないまま、失敗に終わります。そして八郎は、江戸へ戻ったのち、暗殺されてしまいます。

この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。新選組については歴史の表舞台で華々しく活躍した様子が現代の私達もよく知るところであるのに対し、新徴組を知らない人は多いのではないでしょうか。新選組は、浪士隊が上洛した際に、清河八郎の考えに真っ向から反対し、そのまま京都に残ったメンバーにより「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされたものです。

「新徴組」とは?
一方、新徴組は、八郎の考えには賛同できないものの、いったん江戸に戻ったメンバーによって結成された江戸幕府による警備組織です。取締責任者には、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)が就きました。鉄舟は、「勝海舟」(かつかいしゅう)が徳川家処分の交渉のため、官軍側の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)への使者として派遣され、見事にこの大役を務めたことで知られますが、実は、勝海舟がまずその人選として選んだのは、泥舟の方でした。誠実剛毅な人格は、多くの人から信頼を勝ち得ていたと言われています。
しかし、メンバーのなかには、新徴組の名をもとに、幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすりたかりを働いたりする者もおり、泥舟と鉄舟は不祥事の責任を取らされ、御役御免になり謹慎閉居の憂き目にあいます。その後、庄内藩(山形県)酒井家の預かりとなり、再び幕府より江戸市中警護と海防警備の命令を受けて規律を取り戻します。

中沢琴が左の足のかかとを負傷した江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、新徴組が引き起こした事件で、これが戊辰戦争の発端となるのです。
明治維新後の中沢琴
幕末期、徳川幕府の江戸市中における警備組織新徴組の唯一の女性構成員として、倒幕思想を掲げた勤王の浪士達の制圧に力を注いだ女剣士・中沢琴。その活躍ぶりはまさに男顔負けだったようですが、明治政府による新しい時代が始まったのち、中沢琴はどのような人生を歩んだのでしょうか。

昭和のスタートも見届けた中沢琴
中沢琴の誕生年は正確には分かっていません。しかし、その没年は明確で、1927年(昭和2年)10月12日に、その生涯を終えます。元号で言うと、昭和2年のことで、中沢琴は昭和のスタートも見届けてこの世を去ったのです。

生涯独身だった?
中沢琴のプライベートについては、生涯独身という見方がされていることが多いのですが、「群馬人国記」(ぐんまじんこくき)などの郷土史によると、どうやら1度、結婚をしており、何らかの事情で再び独身となったようです。とにかくその美貌から、どこにいても男性達が次々と言い寄ってきたと伝わります。

新徴組の前身浪士隊参加のときには、さすがに女性のままでは目立ち過ぎるため、男装して兄と行動を共にしますが、男装をしたらしたで、今度は男装姿と知らない女性達からのアプローチが多く、「娘達に惚れられて困った」という逸話が残されています。

明治7年に故郷の利根郡へ
明治維新後は、兄・貞祗と共に開墾事業にも携わりますが、新徴組での活動を終えた後の1874年(明治7年)に、故郷の群馬県利根郡へ戻ります。中沢琴はそのとき、30代半ば。まだまだ美貌は健在で、嫁に欲しいと申込む男性も多かったようですが、申込みがあるたびに、こう相手に言っていたそうです。

「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、欲しくば、打ち負かせ」

求婚者達は試合に臨むのですが、彼女を打破る者はなく、中沢琴は、そののち、その生涯を閉じるまで独身で過ごしたようです。これは、推測の域を出ませんが、彼女は、婚姻を申込んでくる男性達と戦うことで、剣士としての自分の楽しみを見つけていたのかもしれません。

彼女が30代半ばからその生涯を終えるまでを過ごした故郷・利根郡は、群馬県の北毛(ほくもう)地区と呼ばれるところで、山岳地帯が多く、非常に自然豊かで四季折々の美しさにあふれた地。そういった楽しみを作りつつ、美しい自然を味わいながら、彼女は、酒を飲むと、詩を吟じ、剣舞も舞ったと伝わります。
江戸、明治、大正、そして昭和という4つの時代を生きた剣豪・中沢琴は、88歳前後で天寿を全うし亡くなったのです。


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